矢田八幡神社
やたはちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】矢田神社 丹後国 熊野郡鎮座

   【現社名】矢田八幡神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町佐野38
       北緯35度34分49秒、東経134度58分28秒
   【祭神】応神天皇 神功皇后 武諸隅命 (配祀)孝元天皇 内色姫命
   【例祭】4月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇神天皇10年四道將軍丹波道主命が創祀
       建武〜文亀山城石清水八幡宮の佐野別宮と称せられた
       文政3年(1820)9月再建
       大正5年12月幣饌料供進神社指定

   【関係氏族】矢田部氏
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「矢田八幡神社」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造銅板葺
       拝殿・神楽所・輿休所・社務所

   【境内社】高良神社・水無月神社・若宮神社・御霊神社・社日社

当初の祭神は饒速日命・孝元天皇・その皇后内色姫命であつたが、奈良朝に至り、当時物部氏と蘇我の爭いからついに物部氏亡び蘇我の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれをおそれ、宇佐八幡を勧請して社名を矢田八幡と改めた。


由緒

崇神天皇10年四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民をして祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。その後建武より文亀に至る160年間は山城岩石清水八幡宮佐野別宮と称せられていた(古文書あり)。当時佐野谷14ケ村の氏神として崇敬されてきたが、現在は佐野、小桑2ケ村(部落)の氏神となっている。明治の中葉社務所焼失のためほとんどの文書を焼失したが、焼残り文書の一つに「神霊由来記」がある。それによると「丹後国熊野郡佐野村延喜式神名(中間破損)矢田八幡神社十一座の内矢田神社矢田者則八幡之中略也(以下略)とあって、当社が熊野郡式内神社十一座の一社である事を示している。当社の付近に矢田谷という地があるが、住古矢田部族の住居地であったと伝承し、今古墳屋敷跡用水池などが残存し、時々高杯布目瓦等の出土しその一部は神社に保管してある。大正5年12月幣饌科供進神社に指定を受けた。境内地坪2,400坪、外に宮所有山1町1反、社殿は文政3年9月再建。孝元天皇と内色姫命の両神像(木造)は京都府文化財保護課神島技官の鑑定にて藤原時代の作と認められ、康治(平安)2年薬師像(木造)有り、古文書は建武2年(1335)、貞治2年(1363)、文亀2年(1502)の3通い何れも石清水八幡宮の文書冩にして当社に関するもの、及び延享2年(1745)豊岡県神社神主書状一巻。(式内社調査報告による)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



矢田八幡神社

矢田八幡神社 村社 上佐濃村大字佐野小字地シワ鎮座
祭神=応神天皇・仲哀天皇・武諸隅命。
由緒=当社は往古宇佐八幡宮を勧請せりといひ伝ふ。而して元十四ケ村の氏神として崇敬せる処にして、今尚例祭に参加せる古例を存せり。現社殿は文政3年9月の再建造営に係る事は棟札により明なる処にして、境内樹木の状態より察するも古社たるを知る。而して設備財産等夙く完成を告げ、大正5年12月幣饌料供進神社として指定せられし処なり。
氏子戸数=186戸。
境内神社。高良神社。祭神=武内宿禰。
     水無月神社。祭神=月読命。
     若宮神社。祭神=卯の御神。
     御霊神社。祭神=応神天皇。
   右社は元小字シワに鎮座ありしが、明治41年9月許可を得、境内社として移転せる処なり。

熊野郡誌



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