熊野神社
くまのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊野神社 丹後国 熊野郡鎮座

   【現社名】熊野神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町神崎
       北緯35度36分46秒、東経134度54分40秒
   【祭神】伊邪那美命
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       貞觀12年(870)従五位下

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳
        大字神崎にコクンバラの地があり旧跡とする説がある

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野權現」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

甲山・兜山(かぶとやま)とも)頂上に鎮座する。麓に鎮座する雲晴神社の境外摂社。
甲山はもと神山(こうやま)であつたのを後世甲山と記したという。
大字神崎にコクンバラという地があるが、大字浦明ではここを古熊野と云いこの社の元社地であるとの伝承がある。
崇神天皇の御代、四通將軍の一人、丹波通主命は、丹波(たにわ)川上(現熊野郡川上)の豪族、河上の麻須の郎女(いらつめ)を娶り五女を挙げたが、子女長じては皆垂仁天皇の皇妃となったのを祝つてこの神を勸請し、社殿は河上麻須の造立である。


熊野神社

熊野神社(くまのじんじゃ)
熊野神社は、『延喜式』神名帳に記載され、熊野郡の名称の由来にもなった神社と伝えられています。
平安時代の歴史書『日本三代実録』貞観10年(868)9月21日条に「丹後国正六位上熊野神」に「従五位下」を授ける記事があり、これは当社のことと思われます。
そもそも鎮座している甲山には祭祀遺跡もあり、「甲山」は「神山」が転じたものという説もあることから、山全体が信仰の対象となっていたのではないかと考えられています。
『丹後旧事記』など江戸時代の地誌類には、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立と伝えられています。
また『熊野郡誌』には、養蚕農家が境内の小石を借り受け、家に祀るとネズミの害を逃れるという風習があったことが記されています。
現在の社殿の建立年代は不詳ですが、昭和2年(1927)の丹後大震災により被害を受け上屋を再建した際の棟札が残されています。
京丹後市教育委員会

社頭掲示板



熊野神社

熊野神社 式内村社。久美浜甲山神崎堺界中央小字甲山鎮座。祭神=伊奘冊尊
由緒=式内社にして、崇神天皇の代旦波道主命川上麻須郎女を娶り、五女を挙げ給ふ。子女皆垂仁天皇の皇后皇妃に立ち給へるを祝ひて勧請し、宝殿は川上麻須の造立に係れりとは、丹後旧事記等に説ける処にして、維新前郡中の雨乞等を為すには、必ず当社に於て行ふを例とせり。当社は山上に鎮座せられ、郡の総社なりといふ。四方の展望絶佳にして北は洋々たる日本海小天橋を眼下に見下す等得難き風趣あり、貞観十年従五位下を授けらる。抑も当社は郡名の起源にして、往古は地方崇敬の中心たりしなり。
編者按ずるに、甲山は元神山なりしを、後世甲山と記せるものならん。且つ熊野神社は本宮新宮若宮の三社あるを普通とす。字河梨に在るを新宮といひ、字品田に在るを若宮といひ、当社は其の本宮たり。而して両部神道の盛なるや、熊野権現を唱へ来りものにて、今尚権現山と称するを例とす。伝説によると字神崎にコクンバラといへる地あり、浦明にては古熊野といふ、当社の元社地也といへり。
三代実録、貞観10年9月21日辛亥授丹後国正六位上熊野神従五位下
神名帳考証 熊野神社 在熊野村 饒速日命歟姓氏録云熊野連饒速日尊命味饒日命之後也
一 崇敬者 650人
霊験 一般養蚕家にてはお猫様と唱へ、当社境内の小石を借受け来りて奉安すれば、鼠の害を免るといふ。而して返済の際は小石を倍数とし持行くを例とす。

熊野郡誌



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