橘枳神社
からたちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】発枳神社 丹後国 竹野郡鎮座

   【現社名】橘枳神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町橋木374
       北緯35度39分13秒、東経135度3分53秒
   【祭神】樋速日命
       古くは天酒大明神・豊宇賀能当ス・姫宮明神(豊宇賀能売命)であつた

   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代不詳
       明治6年2月10日村社
       明治42年10月5日神饌幣帛料供進指定
       昭和2年3月7日奥丹後震災大破

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿・幣殿

   【境内社】愛宕神社・稻荷社
   【別当】発信貴山縁城寺

古伝によると、垂仁天皇の御代、新羅の王子天日槍(アメノヒボコ)命が、九品の宝をもつて竹野郡鹽干濱に着いた。その九つの宝の中に橘(キッ=たちばな)の木があつた。今の木津は橘の音をとつてあてはめた文字であるという。ところが、姫宮大明神(今の橋木)の御神託によつて、その橘の中、一本をゆづりうけ、今の社地に植えたから、韓国から渡来した橘というので、カラタチと呼んで神社名とした。


撥枳神社

(延喜式)竹野郡 発枳カラタチノ神社(頭註)発枳諸本訓似二未一レ穏今按和名抄丹波郡有二国枳(周枳の誤なり)口枳郷名一撥枳亦地名歟或当レ訓二保伎
(丹後旧事記)撥枳ハシキノ神社 撥枳邑
祭神−豊宇賀能(口編に羊)命 延喜式小社
此神社非二竹野郡一和銅国造後丹波郡與成国史相違又縁城寺当社坊官與成依撥枳山号
(丹波一覧集)同上 但し訓カラタチノ神社とす
按、訓ははしきと音読すべし村名も縁城寺の山号も此の社名より起る延喜式頭註の訓採るに足らず
(両丹式内神社取調書)撥枳神社(頭註)〔道〕丹波郡橋木村発枳をからたけと読むは誤なり波知枳なり今橋木と訛る抄に只枳とあるは八枳ハチキの誤なり(下略)(按、只枳とはなし口枳なり)
(丹哥府志)撥枳神社、撥枳の神社は大神宮に姫宮大明神を合せ祭る姫宮大明神は風土記に所謂天女なり祭9月16日
(峰山明細記)社二ケ所(但神主無御座候村支配に御座候)
一ケ所 (三尺社の内) 姫宮明神、太神宮、春日明神 上屋一間半に二間 境内長六間半幅四間半程 不動院持
右祭礼9月16日和田野村神子さん相雇神事相勤させ申候
一ケ所 (小祠)愛宕権現 上屋一間半に二間 境内長九間幅七間 不動院持 右両社山一ケ所間数難相知御座候
(村誌)村社 字千原 撥枳神社 祭日9月16日 祭神樋速日命
由緒 社記記録等存在せされは確據ならされとも里古老の口碑を具に挙れは上古より現今の社地たりしが当村縁城寺西明院別当たりしと云々
境内東西十二間南北八間 面積九十一坪
境内神社 二社 愛宕神社 祭神軻還樋命 由緒不詳 稲荷社 祭神保食大神 由緒不詳
按、撥枳神社祭神も亦豊宇賀能当スなること疑なからん天酒大明神と称するも矢田丹波両村の例と均し

中郡誌槁



撥枳神社

【揆枳(からたち)神社(式内社、橋木、祭神 通速日命)】『延喜式』竹野郡発枳(からたち)神社である。「社号」について、『延喜式』に発枳神社とあって、カラタチノ神社と振仮名してある。カラタチは枳一字でもよい。『本草和名』に「枳は一名枳穀……和名、加良多知」とある。また古伝によると、垂仁天皇の御代、新羅の国の王子天日桙命が、九品の宝をもって竹野郡(塩干浜という)に着いた。その九つの宝の中に橘(キツ−たちばな)の木があった(一書、橘を持ち帰ったのは田道間守であるという)。今の木津は橘の音をとってあてはめた文字であるという。ところが、姫宮大明神(今の橋木)の御神託によって、その橘の中一本をゆずりうけ、今の社地に植えたから、韓国から渡来した橘というのでカラタチと呼んで神社名とした。その後、撥枳の二字をあてはめたが、ハチキと音読するようになり、ハチキがハシキに変化して、今の村名橋木や、縁城寺の山号発信貴が生まれたといっている。
なお、撥枳は、田道間守が常世ノ国(中国か)から持ち帰った名木であるというのも、同じ意味をさしているのであろう。
また、『延喜式』の発枳(からたち)は、音読してハチキと読むのが正しいとして、『和名抄』中、丹波郡七郷の一つではちきある口枳(くちのすき)郷は、八枳の誤りで、八枳郷であるという説もある。しかし、今のところ、口枳郷にあてはまる地域は確定していない。こうした古い時代の呼び名は、呼び名が先にあって、あとからこれに似た漢字をあてはめた例も多いし、また、その際音であてはめる場合と、訓や、意味から適当な文字をあてはめる場合とがある。
『延喜式』が完成した延長五年当時は、「カラタチの神社」と呼んで「発枳」の二字をあてはめたものであろうか。しかし枳(からたち)の上に発の字を加えたところをみると、ハチキと音読させるためのようにもうけとれる。
また、同じ漢字の中で、木偏の撥枳と手偏の撥枳の二通りが用いられている。同じハチキと読ませるにしても、カラタチを意味するならば木偏の撥の方が適当のようである。でなければ、全然無意味な漢字撥と枳を組み合わせてハチキと読ませたとも思えない。
なお、現在神社の烏居の額は、たしか「撥枳」と木偏であり、神主も『延喜式』どおり「カラタチ」と唱えている。この神社が『延喜式』の竹野郡の部に載せられていたことも前に述べた。
宝暦3年(『峯山明細記』)
三尺社の内 姫宮明神、大神宮、春日明神、上屋 一間半に二間、境内 長六間半幅四間半程、縁城寺中不動院持ち、祭礼 9月16日、神主なく、村の支配。和田野村の神子さんを雇って神事を勤めた。
一、小祠 愛宕権現、上屋 1間半に二間、境内 長九間幅七間、不動院持ち、両社の山 一ヶ所、間数相知りがたく…。
(注)姫宮明神とあるのは、やはり『丹後風土記』の比治山の天女の一人で、豊宇賀能売命である。
文化7年(『丹後旧事記』)
揆枳神社、揆枳邑(一書、揆枳神社、揆枳村とある)
祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命、延喜式並小社、この神社は古竹野郡であったが、和銅年中、国造の以後は丹波郡となり、坊宮は揆枳山縁城寺という。
これによると、この神社は、和銅6年(713)、丹波国の奥五郡を割いて丹後国を置いたときまでは竹野郡に属していた。揆枳山縁城寺は、この神社の坊官(別当)で、例の元国宝の千手観世音は、この神社の奥の院の御神体であったともいっている。縁城寺の山号を発信貴山と書かないで、揆枳山と書いているのは『丹後旧事記』ばかりでなく、その後『峯山旧記」も同様である。
しかし、和銅六年の国造りから丹波郡に入ったというこの神社が、214年後の『延喜式神名帳」に竹野郡となっている点はどうであろうか。
天保12年(『丹哥府志』)
揆枳の神社は、大神宮に姫宮大明神を合わせまつる。姫宮大明神は『風土記』にいわゆる天女なり。祭9月16日
明治2年(『峯山旧記』)
揆枳神社 橋木村にあり、祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命。……縁城寺中、不動院支配、神子和田野村采女持ち、祭9月16日、境内 愛宕権現、稲荷明神
明治12年(『神社調御届』)
中郡第二組、橋木村字千原、本社 発枳社、境内 長八間横六間、此反別一畝一八歩、内敷地 二間に二間半、同所 小社愛宕社、境内 長九間横七間、此反別二畝三歩、内敷地 二間半四面、小社 稲荷社 三尺に二尺、境外山林 反別三反二畝五歩、本社発枳社より峯山不断町まで三六丁余
明治17年(『府・神社明細帳』)
村社発枳神社、祭神 樋速日(とよはやひ)命、由緒……当村縁城寺西明院が別当であったという…(村誌)社殿 一間半に二間、境内 一、五二七坪、官有地第一種
〔境内神社)愛宕神社、祭神 軻還命、由緒不詳、建物 一間半に二間
稲荷社、祭神 保食大神、由緒不詳、建物八寸四面(一書、四尺に五尺)、境内 三三坪、官有地第一種
(頭注付記)拝殿新設の件、明治42年11月25日許可、社掌 兼勤…中沢義治(久次)
一、田畑 二十一筆、村中持ちと思っていたが、確証を発見したので、地券書を改めたよし、明治19年6月1日届出。
一、小字新蔵二ヶ所、畑反別一畝二一歩、道路敷官有地寄附の件、大正2年5月9日許可。
一、大正14年4月2日、例祭4月22日に変更許可。
昭和2年(『調査報告』)
揆枳神社……口碑伝説(『村誌』、『丹後旧事記』『古伝』『丹寄府志』…省略)
明治6年2月10日、列格(村社)、同42年10月5日、神撰幣吊料供進指定。
例祭 10月16日、基本財産 境内一、四七四・二六坪(宅地九二・四坪、山四反六畝二〇歩、畑一畝二六歩、池沼四畝一〇歩、原二反○畝一九歩、田二畝一○歩〈昭和30年現〉)。
昭和2年3月7日、震災のため大、小破。

峰山郷土志



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