春日神社本殿の右手に、境内社・床尾神社がある。 元現今の前面床尾山に鎭座あり、床尾山頂上には御靈壺を埋めてあるという。 社前の道路反対側に島津勤労婦人と子供のセンター(現網野町島津連合区事務所)がある。この建設のため丘陵を整地していた際、宮跡らしいものが発見されている。 |
床尾神社 現在、春日神社の境内社であるが、もとは床尾山に祀られていた。口碑によれば床尾山ではお宮が北面していて、不浄のことがあると日本海の船が進めなくなるので、そのためこの神社を山の下の低地に移し、社殿の向きも南面としたと伝えられている。 社頭掲示板 |
春日神社 春日神社 村社 字嶋溝川字宮垣鎮座 (神社明細帳) 祭神大日霊命 天児屋根命 武甕槌命 経津主神 創立不詳、寛永12年3月再鍵、明治6年村社に列せられ、明治40年3月1日神領幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる 本 殿 梁行六尺八寸 桁行六尺九寸 拝 殿 梁行二 間 桁行七間八分 輿 蔵 梁行二 間 桁行二 間半 境内坪数 二百十六坪 境内神社 四 社 床尾神社 明治6年村社に列せらる (延 喜 式) 床尾神社 (丹後舊事記) 床尾神社 竹野郡島村 祭神 天酒大明神 豊宇賀能売命 昔後光巌天皇延文2年己酉秋八月漢嶺瑞雲禅師蓬莱島湖秀山龍献寺と云寺を建立有て當社の坊官と成ると龍献寺記に見へたり (口碑) 本社は元床尾山に鎮座して北面なりしが不浄のことあれば北海を航する船舶は忽ち崇を蒙りて進退の自由を失ひたり、依て船を清浄にし御神慮のあるを待ちて進みたりといふ (神社明細帳) 建物 梁行 三尺七寸 桁行 四尺六寸 (伝説) 元現今の境内の前面床尾山に鎮座ありし神社にて床尾山頂上には御霊壷埋めあり (什 寶) 一青銅金燈籠 一対 宮津藩主本荘宗秀公寄進 一鰐 口 径一尺一寸 一個 銘奉掛氏神七所大明神丹後竹野郡島之庄 願主 嵯峨根治右街門吉定 内 田 喜 兵 衛 住大仏住天下一西村左近藤原貞利作 一銅板に七仏を附したるもの 銅板の裏に木板を嵌め之に文字ありされど不明康永2乙酉年九月とあり 竹野郡誌 |
春日神社 春日神社 島津字宮垣(現春日)鎮座 祭神 大日A貴命・天児屋根命・武甕槌命・経津主神(「神社明細帳」) 由緒 創立年不詳 寛永12年(1635)3月再建、明治6年村社となる。昭和2年の丹後大地震で社殿倒壊、昭和3年再建以後数次にわたり修理造営を繰り返して現在に至る。 祭礼 以前は10月16日、現在は10月10日に行われる。神輿の御旅・相撲・祭太鼓などを行ない昭和初期までは馬駈もあった。しかし祭行事の白眉は太刀振りである。明治41年(1908)、村の青年たちが宮津市一の宮の太刀振りを伝習して奉納して以来、これが継承されている。(『島津誌』) ○境内神社 床尾(ゆかお)神社(式内)明治6年村社となる 祭神 天酒(あまさか)大名神・豊宇賀能売命(『丹後旧事記』) 由緒 創立年不詳 『竹野郡誌』は口碑として「本社は元床尾(ゆかお)山に鎮座して北面(北向き)なりしが、不浄のことあれば北海(日本海)を航する船舶は忽ち祟り蒙りて進退の自由を失ひたり。依て船を清浄にし御神慮あるを待ちて進みたりといふ」と記している。のち、春日神社の境内社となり当社は現在南面して建つ。(春日社本殿向かって右) 注 祭神は磐筒男命とし、俗に稲妻明神という説(旧『町史』)もあり、また「丹後旧事記」に『昔光厳天皇延文2年(1357)8月 漢嶺瑞霊禅師蓬来島湖秀山竜献寺(注 木津岡田)と云寺を建立有て当社の坊官と成ると竜献寺建立記に見えたり』とあり、神仏習合の様子がうかがえる。(式内社調査報告第十八巻山陰道1) 網野町誌 |