深田部神社
ふかだべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】深田部神社 丹後国 竹野郡鎮座
          (旧地)深田部神社(旧地)

   【現社名】深田部神社
   【住所】京都府京丹後市弥栄町黒部411
       北緯35度40分33秒、東経135度5分54秒
   【祭神】宇気母智神 八幡大神 天照大神 天児屋根命
       八幡大神 天照大神 天児屋根命は合祀神

   【例祭】10月9日・10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇神天皇10年四道將軍丹波道主命により創祀
       神護景雲年間(767−70)、分社として岡山県上道郡幡多村に深田神社を祀
       文政12年(1829)11月24日造営
       明治初年村社
       明治40年神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧社地は現在弥栄町黒部小学校の敷地
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・庫藏

   【境内社】稻荷神社・須賀神社・神功神社
   【別当】福昌寺(字黒部にある)

現今社地は元来八幡神社の社地であった。元の宮地は乾の方にあたり、三町余り隔てて宇野崎という岳の草叢の中に一本の榎を植え永く神跡の証とした。現在弥栄町黒部小学校の敷地となり、多少は移動したが、「草叢の榎」は現在もグラウンドのバックネット裏に在る。


深田部神社

深田部神社 村社 字黒部鎮座
 (延喜式)竹野郡 深田部神社 
 (同社調文書)祭神 豊宇気大神 天照大御神 天児屋根命 誉田和気尊
 豊宇気大神は崇神天皇10年癸己丹波道主命に詔り給ひ、国中に不服者あらば射向けよとの大命により、當国に下りたまひ平定の後、此国を治し坐せる時に、御稔豊に国人の安穏に日足り行かん事を欲し、坐して穀物に幸ひ給ふ、此一柱の大神を此地に鎮め奉り給ひしなり、明治の初村社に列せらる、
明治40年3月1日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる
(丹後考) 村社 深田部神社  在竹野郡深田村大字黒部小字深田山
  祭神 宇気母智神
  相殿 天照大御神  誉田別尊  天児屋根命
 社伝曰祭神大皇御代丹波道主命四道将軍として當地巡撫の際鎮祭せし所なり且延喜式小社なり、當神社の分社岡山県上道郡幡多村大字今谷に在り式外の神社にして深田神社と称す従二位の位階ありしなり當社よりの分霊年月日不詳古老伝説には神護景雲二年と云ふ、又現今社地は元来八幡神社の社地なり元の宮地は當社より乾の方に當り三町余り隔てゝ字野崎といへる岳の草叢の中に一本の榎を植ゑ永く神跡の證として今に至り存在せり其年代不詳明治維新の際社名改称す、
(同社棟札) 屋根茸替、明和4年7月、天明6年8月文化2年7月等あり
(幕) 氏子九十内名の寄進に係るものにして寛文9年とあり
(同社調文書) 天照大御神、誉田和気食、天児屋根命、此三柱の大神鎮祭の年月詳かならずと雖、古来より神輿三社あり一は天照大御神一は誉田和気尊一は天児屋根命にして、毎年大祭のときは本社より南方二町命隔て神幸所へ行幸す、猶古代より各大神に一人宛累代の旗本と称する者ありて、神事の際供奉せり天照大御神旗本谷口氏家誉田和気尊藤田氏家天児屋根命垣内氏家此内藤田垣中両家は去る明冶12年に至り自ら此役務を辞す、是により氏子総代の内にで二名に代り勤務することゝなりぬ、
社名原由深田部の名義社記に曰當地の近辺往古海原なりしが漸々潮水引き其跡深き沼田となる、其時の状況自然土地の地名となり此近辺総て深田と云ふ此地に創立せしを以て深田部神社と称するなり
本 社 梁行 五間 桁行五間一尺 文政12己丑年11月24日造営
門   仝二間 仝一間四尺三寸  文政13庚寅年8月3日造営
拝 殿 仝二間 仝二間一尺六澗  仝上
輿 庫 仝二間 仝二間四尺五寸  仝上
境内坪数  千七百一坪

竹野郡誌



深田部神社

深田部神社 字黒部八幡山鎮座
元村社 延喜式内社
神饌幣帛料供進し得べき神社指定
祭神 宇気母智神(豊受大神)
   八幡大神(誉田別尊後応神天皇)   天児屋根命(春日大神)
   天照皇大神
由緒 神社明細帳及び同神社の古文書によると深田部神社の主神は元来宇気母智神で、上古崇神天皇10年9月(約2050年前)開化天皇の御孫丹波道主命に詔し給い背面なる国中に服せざるものあれば言向けよとの大命をもって当国に下り給い、平定後この国を治められし時五穀の稔り豊かに国土安穏ならん事を思召され、穀物を掌る宇気母智の神をこの地に鎮め給うとある。ゆえに当社は皇族丹波道主命の創祀されたるもので一般里人が勧請して分霊を奉祀せるものと趣きを異にする。爾来星霜を経て応仁年間(約500年前)「神社は痛く荒廃し、宮柱も朽ち果てければ里人等相謀り深田山に鎮座の八幡社に遷し合祀せり」とある。
もとの社地は、当社の北の方300m余り隔てた小字野崎の岡で、その岡の草叢にはその後一本の榎を植え永く神跡の証としたが、現在黒部小学校の敷地となり、校庭拡張の際多少移動したが今なお現存している。社名深田部の名は社説によれば「昔当地は海原であったが漸く潮水引き其の跡深き沼田となる。其時の状態自然地名となり深田という。此地に神社創立されたため深田部神社という」とある。通称八幡様というのは配神である八幡大神を宇気母智命を遷祀する以前より祭祀し、このお山を八幡山と称したのによる。八幡大神の創祖された年代は不詳であるが、鎌倉時代源家の氏神であり武将の崇敬篤く全国に祭祀され当地にも古くから祭祀されていたようで、長保三年八月(約千年前)の丹後地検帳という古文書に当社の社領地のあったことが記してあるそうである。配神天照皇大神、天児屋根命の創祀された年月その他由緒不詳であるが、神輿三社あって、
一つは八幡大神
一つは天照皇大神
一つは天児屋根命で毎年秋祭の時本社より南方200余m隔てた神幸所へ行幸する。旧来より各大神に一人の旗本と称するものがいて神幸の際供奉した。
天照皇大神の旗本谷口家
八幡大神の 同 藤田家
天児屋根命の同 垣中家
当社は日本国内に類社なく、ただ岡山県備前の国上道郡幡多村字今谷に一社がある式内社であって、深田神社という当社よりの分霊年代は不明であるが、明治28年全国古社取調べにあたって先方深田神社社掌岡本真潔氏よりの照会で神護景雲2年(1200年前)らしいと判明した。
昔から近世になるまで分社より代参の慣例があった。一時中絶していたが最近また復活した。

弥栄町史



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