志布比神社
しぶひじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】志布比神社 丹後国 竹野郡鎮座

   【現社名】志布比神社
   【住所】京都府京丹後市網野町浜詰
       北緯35度40分18秒,東経134度57分53秒
   【祭神】櫛八玉比女命 塩椎神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代不詳
       明治4年3月村社
       明治39年9月御来屋(ミクリヤ)神社が志布比神社に改称
       明治41年4月10日神饌幣帛料供進神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】創建は塩比の浜の清い所
        その後社を志布比の浜へ移した
        元は塩井地(せえじ)に志布比神社があった
        明治39年9月御来屋(ミクリヤ)神社と合祭し志布比神社に改称

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・參集所・神庫

   【境内社】稲荷神社・金比羅神社・愛宕神社・蛭子神社

人皇11代垂仁天皇のとき、新羅の皇子天日槍命が九品の宝物を日本の垂仁天皇に献上した、御座船が塩土翁の神(志布比の神)に導かれて上陸したのが、この地で、日本にはじめて橘が伝わつたのでこの付近を橘の莊と名付け、後に木津と書くようになつた。天日槍命は塩比の浜に鎮座し、その地を宮故(クゴ)と名付け、命が但馬出石に移つてのちは塩土翁の神も同所に祭られるようになつた。そののち社地の近くには人家が立ち並び穢れ多くなり、祠を志布比浜の海のほとりに奉還した。
浜詰小学校の東方の高みのあたりを塩井地(せえじ)と云って元塩江部落のあった所だという。ここから南方を見れば浜詰のうしろ田んぼである。ここに志布比のお宮があったとすれば何らの不自然はない。『網野町史草稿』
太平洋戦争中に旧日本海軍の日本海方面への防備として、この丘陵の下には魚雷発信基地が設置されていた。


志布比神社

垂仁天皇の代新羅国王の王子、天日槍命が9品の宝を積み、日本に来て天皇に献じた。この御座船を導いたのは塩土翁であり、命が渡来最初の居を定めたのは塩比の浜の清い所で、ここを「古宮」と名付け、塩土翁は社を建てて祀った。命が但馬に越されて後、社のほとりに人家が建ったが、しばしばけがをしたので、社を志布比の浜へ移したといわれている。

社頭掲示板



志布比神社

☆志布比神社社伝《『丹後国竹野郡誌』を中心に口語で記す》
創立年代不詳。第11代垂仁天皇の時代に、朝鮮半島の新羅国王の皇子、天日鉾命が九品の宝物を献上。(日の鏡・熊の神籬・出石の太刀・羽太玉・足高玉・金の鉾・高馬鵜・赤石玉・橘)この宝物を御座船に積んで日本に来られた。天日鉾命の御座船を先導された大神は塩土翁の神であり、到着した場所は、竹野郡の北浜、箱石の近くに着船した。日本に初めて橘を渡賜した場所であるので、この辺りを「橘の荘」と名付けたが後に文字を変えて「木津」と書いた。(橘の音キツを木津に変えたもの、木津をキヅと読むのは誤り)天日鉾命が日本に到着して初めて鎮座された場所は、塩比の浜の清き土地を選んで鎮座された所を「宮故」(くご)と名付けて御座を導き、来朝された塩土翁の大神の叢祠(荒れたほこら)を建ててお祭りをされた。その後、天日鉾命は但馬国を目指し、熊町郡川上荘馬次の里の須田にしばらく駐在し、それより川上の奥布袋野の西の峠を越えて旭馬国に越えられた。例の九品の宝物を馬に乗せてこの峠を越えられたので、駒越しと名付けられた。倶馬国出石郡宮内村に鎮座されて、例の九品の宝物を垂仁天皇に献上された。そのうち橘は禁裏紫震殿に向かって左側に植えられた。(この橘を「右近の橘」と名付けた)天日鉾命がこの地に来られた時、志布比の神の叢祠も同所に建立され祭られた。
が、天日鉾命が但馬国に行かれた後、この土地に人家が日ごとに増加し、社地の付近を汚すと言うので、人々は、度々の咎を受けたので、この叢祠を志布比の浜の付近に奉還して、現在では、御来屋神社も併せて祭っている。
この御来屋神社は、後醍醐天皇が隠岐里におられる時、後醍醐天皇の御守神であったと申し伝えられている。祭神は櫛屋玉姫命と言われ、明治4年3月村社になり、明治41年4月10日神饌幣帛料を供進される神社として指定されたが、戦後は、廃止された。この御来屋神社に就いては、昔、海上より流れ来る厨子があった。
(高さ二尺余、内に木像が安置されて居た)塩井の惣右衛門と言う人が、漁の途中これを拾って小祠を礎てたのが始めと言う。後4・5年を経て伯州御厨(みくりや)の人が来て、船を夕日が浦に停泊させた所、その夜山岳嶋動した。この人は以前に御厨に洪水があった時の山岳鳴動と同様だったので、怖がった。塩井の人々これを聞いて御厨の人に「その時、神社が流れた事があったか。」と尋ねたら「あった」と言い「しかも、御厨の氏神であり、その時の洪水萱神の崇りである。氏神を蔑ろにしたので神社をお遷りになったのだ。」という。そこで塩井の人が尊像や厨子の寸法を語ると総て符合した。御厨の人は居ることが出来ず、その霊験のあらたかさの偉大さに驚き、新しく富殿を造り御来屋大明神と称した。そばに若宮売大明神の社があり、これは「延喜式」に載っている志布比神社である。
(文責高田昭彦)

由緒書



志布比神社

志布比神社 村社 浜詰村夕日鎮座
 御来屋神社を志布比神社と改称の義明治39年9月13日許可せらる
 (神社明細帳) 祭神 櫛八玉比女命
            塩推神 由緒創立不詳貞亨元甲子年9月10日再興の若宮神社を合併の義明治39年8月3日許可せらる
   由緒 創立不詳再興延宝8庚申7月明治4年3月村社に列せらる
  本殿 染行四尺五寸 桁行五尺二寸
  拝殿 梁行貳 問  桁行参 間
  境内坪数 貳千五百五十七坪
  境内神社  六 社
(社伝)
創立年代雖不詳人皇11代垂仁天皇御宇新羅国王の皇子天日槍命九品の寶物を日本に伝へ垂仁天皇に献せらる、此九品の寶物と有は、日の鏡、熊の神籬、出石の太刀、羽太玉、足高玉、金の鉾、高馬鵜、赤石玉、橘、合せて九品の寶物を御座船に積て来朝成し給ふ、天日鉾命の御座船を導き給ふ大神は、塩土翁の神なり、其来朝ありし所は竹野郡の北浜、筥石のほとりに着船す、日本に始て橘を渡賜故に此辺を橘の荘と名付後に至り文字を替て木津と書なり、天日槍命日本に渡り給て始て鎮座有し處は塩比の濱の清き土地を撰び始て鎮座有し所を宮故(くご)と名付同所に御座を導き来朝成し賜ふ塩土翁の神の叢祠を建て祭り置き給ふと云へり其後天日槍命は但馬国を志し熊野郡川上荘馬次の里の須郎に暫し座して夫より川上の奥布袋野の西の峠を越えて立馬国に越え賜ふなり彼の九品の寶物を馬に付て此峠を越え給ふ 彼此峠を駒越しと名付く、但馬国出石郡宮内村に鎮座まして彼の九品の寶物を垂仁天皇へ奉献賜へり此九品の内橘を禁裏御所紫宸殿の庭前に植置き給へり、此橘を右近の橘と名村天日鉾命来朝の砌り導き給ふ志布比の神の叢祠も同所に建て祭有けれども、天日鉾命但馬国に至り彼此土地に人家日に増して、社地のほとりを穢す、故に人民度々咎を宇け依之此叢祠を志布比の浜の海のほとりに奉還し、同所に今は御来屋神社も併て祭置なり、此御来屋神社は後醍醐天皇隠岐国に坐す特、後醍醐天皇の御守神との申伝なり、祭神は櫛屋玉姫命と云伝ふ、明治4年3月村社に列し明治41年4月10日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる
(同社調文書) 若宮神社は祭神若宮売大明神、豊宇賀能売命、御卸久理屋大明神にして、志布比神社に合せ祭る
(丹後旧事記) 志布比神社  塩江村
  祭神
     若宮売大明神  豊宇賀能売命
  合神 御久理屋大明神
 神伝曰、合神は昔出雲国日の岬より流来りて、此所の里人拝し祭る、今も出雲日岬の船来り神山の礒にかゝれば山鳴すること其例少なからず
(丹哥府志) 御来屋(みくいや)大明神  祭9月10日
 御来屋大明神は普海上より流れ来る、厨子の高さ二尺餘、内に木像を安置す、塩井の惣右衛門と申す人これを拾ふて為に小祠を建つ、後四五年を経て伯州御厨の人来りて船を夕日の浦に泊す、是夜山岳鳴動す、先是御厨(みくいや)の洪水せし時山岳の鳴動する如斯なりよつて怖る、塩井の人これを聞きて其人に問ふて曰、其時神社の流るゝありや、日あり、吾曹の氏神なり是時の洪水蓋神の崇りなり吾曹神をなへがしろにす、よつて神座を遷したまふといふ、於是塩井の人其尊像及厨子の寸法明にこれを語るに一々符合せり、御厨の人留ゐべからず、怖々去りぬ、其霊験往々少からずよつて新に宮殿を造りこれを壮にし徹来屋大明神と称す、其傍に若宮売大明神の社あり、是延喜式に所収の志布比神社なり豊宇賀能売命、豊宇気持命を合せ祭る、

竹野郡誌



志布比神社

志布比(しふひ)神社(式内) 浜詰字夕日鎮座
 祭神 櫛屋玉比女命(御来屋神) 注「みくいや」とも。
    塩土神(志布比神)
    若宮売命(若宮神)
    豊宇加能命(若宮神)
 由緒 いずれの神々も創立は不詳であり、(「御来屋神社」を「志布比神社」と改称の義明治39年9月13日許可せらる)と『竹野郡誌』は書いているが、これは本来「志布比神社」が延喜式内社とされていることと矛盾する。また『竹野郡誌』は「神社明細帳」「社伝」「同社調文書」『丹後旧事記』『丹哥府志』「社蔵古文書」などを引用しているが、各文献の内容の不一致、重複が多く判断し難い。
しかし今回、志布比神社高田神官の示唆を仰いで右のように記録することができた。「志布比神社」は御来屋神社・若宮神社と三社合体の神社であり四神(若宮売神・豊宇賀能命同神説によれば三神)を合祀していることとなろう。
注一 櫛屋玉比女命(櫛八玉とも)は海の神で、いわゆる「出雲系」の神である。
塩土神(塩土翁・塩椎神などとも)海神・航海などの神、やはり「出雲系」。
豊宇賀能@命(豊受大神・郷の大宇賀神社参照)五穀・食物の神、女神。
 二 慶応4年(1868)に加茂神社(木津)の今井神官の太政官御役所の御回状写しによれば、
御来屋大明神 浜詰
若宮大明神  塩江
となっている。これによれば若宮明神は塩江であって浜詰ではない。ところが現在ある地所は浜詰である。並んで建っているお社の一方が浜詰で他の一方は塩江ということは考えられない。現在(注昭和30年ころ)浜詰小学校の東方の高みのあたりを塩井地(せえじ)と云って元塩江部落のあった所だという。ここから南方を見れば浜詰のうしろ田んぼである。ここに志布比のお宮があったとすれば何らの不自然はない。こういう点から考えて元は塩井地に志布比神社があったとみるのは肯けることと思う。両社並んでいたのを明治末期(注先山)合察して一社殿となった。(旧『町史草稿』)
各伝承の概要
天日槍と塩土神(民俗編第三章参照)
第11代垂仁天皇の御代、(異説あり)新羅国(古代朝鮮東南部)の王子天日槍が九品の宝物をこの国に伝えて天皇に献上した。この時王子の船は筥石に着く。水先案内をしたのが塩土神である。
(2)御来屋大明神
A、神伝曰、(この神は)昔出雲の国日の岬より流来りて、此所の里人拝し祭る。今も出雲日の岬の船乗り神山の磯にかかれば山鳴することその例少なからず。(『丹後旧事記』)
B、御来屋大明神は昔海上より流れ来る。厨子の高さ二尺余、内に木像を安置す。塩井の惣右工門といふ人これを拾ふて為に小祠を建つ。後四・五年を経て伯州御厨の人来りて船を夕日の浦に泊す。この夜山岳鳴動す、先年御厨(伯州の)洪水せし時山岳の鳴動斬くの如きなり、依って怖る。塩井の人これを聞きて其人に問うて曰、其時神社の流るる事ありや、曰く、あり、吾曹(わが仲間)の氏神なり、この時の洪水萱神(かやがみ)の祟りなり、吾曹神をないがしろにす、よって神社を遷したまふといふ、ここに於いて塩井の人其尊像及厨子の寸法明らかにこれを語るに一々符合せり、御厨の人留るべからず、英霊験往々少からず、よって新に宮殿を造りこれを柱にし御来屋大明神と称す、其傍に若宮売大明神の社あり、是延喜式に所載の志布比神社なり、豊宇賀能@命、豊宇気持命を合せ祀る。(『丹哥府志』)
注一 「みくりや」地名は「日の岬」には見当たらず、また「日の岬」は伯州ではない。しかし鳥取県西部名和町の海岸部に「御来屋」(古くは(御厨)と書いた)という集落がある。
二「御厨」−古代・中世の神領、主として供膳・供祭の魚介などを献納する非農業民支配の過程で成立。内容は荘園と等しく、伊勢神宮と賀茂社(上巻二四七ページ参照)にかぎられるようである。
三「宮故(くご)」の地名は元来「供御」の意かもしれず、「供御」とは貴人・天皇の食事をいい、平安時代には「御厨」などから貢進している。
○境内社
 稲荷神社 祭神宇賀魂神
 今宮神社 祭神不詳
 金刀比羅神社 祭神大物主命(大国主神の異称)社祠無く志布比神社に合祀か

網野町誌



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