崇神天皇の時代、当国に賊徒があらわれて人民を悩ましていた。志夫美宿禰は父、日子坐王命の命に従いこれを退治した。この志夫美宿禰を鎭めているのが、この志布比神社であるという。 異説として、藤原道長に使えた道長四天王の一人であり、和泉式部の夫でもある平井保昌(藤原保昌)によって当地の塩害が改善され、稲が実るようになったため、平井保昌を祀るという説もある。 |
志布比神社 志布比神社 村社 字大山小字白岩鎮座 (式 内) 志布比神社 (神社明細帳) 祭神 志夫美宿禰命 由緒 記録無之明治4年未5月村社に列せらる 古老博曰 志夫美宿禰命を鎮め奉る事は崇神天皇の御世當国に賊徒あり人民を悩し依之齋宮の神御兄弟にて共に之を退治し王の神と云ひ老案彼れ志夫美宿禰命は日子坐王命の御子にて古老伝者親子の違あれと按に父の命に随ひて共に退治し給ひしと知らる創立不詳延書5年12月式内に列す元禄10年丁丑6月享保21年辰5月寛政3年玄8月三度建営明治41年4月10日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる 一社 殿 梁行四尺八寸 桁行五尺二寸 一上 殿 仝 三間五寸 仝 二間五寸 ー籠 屋 仝 二 間 仝 四 間 一境内坪数 千三十五坪 一氏 子 六十二戸 境 内 神 社 稲荷神社 祭神 宇賀魂神 素盞嗚神 火産霊神 天御中主神 竹野郡誌 |
志布比神社 志布比神社 大山小字白岩 塩干大明神(しふみすくねのみこと)を祭る。塩干大明神は松枝大明神とともに麻呂子親王の皇弟にあたり、親王とともに鬼賊平定のグンコウたてた。塩の神様ともいわれ峰山方面からも寄進者があった時代がある。 明治4年未5月村社となる。 延喜式内小社であり、元禄10丁丑六月、享保21辰年5月、寛政3亥年8月再建が行われた。 明治41年4月神饌幣帛供進神社に指定された。 境内に稲荷神社があり、宇賀魂神、素盞嗚神、火産霊神、天御中主神を祭る。 丹後町史 |