天照大神を祭神としており、通称「斎宮」と呼ばれている。 「古事記」には、竹野の里を国府としたという伝承を持つ、丹波の大県主由碁理の娘・竹野媛が開化天皇の妃になると見え、この竹野媛が年老いて郷里に帰り、天照大神を奉祀したのにこの神社は始まると伝えられる。 本殿と並ぶ境内摂社斎宮神社には、日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命の三神が祀られている。 ここには、用命天皇の第3皇子磨子親王も祀られており、鬼退治の伝承が伝えられ、縁起絵巻も残されている。この「オニ」退治の伝承には、大和政権が丹後の豪族を「オニ」とし争い、丹後を支配していった過程において残された英雄伝説との説もある。 |
竹野神社 竹野神社は、「延喜式」の神名帳で大社として記される。祭神は天照大神であり、本殿と並んで摂社斎宮神社があり、祭神として日子坐大命、建豐波豆良和気命、竹野媛命を祀る。竹野媛は丹波大県主由碁理の娘で、第9代開化天皇の妃となる。「古事記」「日本書紀」にも記され、竹野神社は竹野媛が年老いて天照大神を祀ることに始まると伝えられる。 斎宮神社には、第31代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承がある。この伝承は「等楽寺縁起」「斎明神縁起」として絵巻に描かれ、京都府登録文化財となっている。 現在の社殿は文政13年(1830)に再建されたものである。本殿は規模の大きな一間社流造で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、斎宮神社本殿は対照的に小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有している。中門は神社の門としては珍しい向唐門の派手な印象を与える建物で、いずれも京都府登録文化財として指定されている。 この地に竹野区に伝えられ、竹野神社の祭礼に演じられる郷土芸能「竹野テンキテンキ」は、子供六人からなる素朴なものであるが、風流囃子物の古い形をのこす芸能で、京都府登録文化財に指定されるなど優れた文化財を伝えている。 社頭掲示板 |
竹野神社 丹後町指定 彫刻 竹野神社は竹野郡内の延喜式内社14座のうち大一座の社格を有し、開化天皇の妃、竹野姫をはじめ用明天皇第三皇子の磨呂子親王などにゆかりの古社であり、また記録によれば隠岐よりの神馬献納をはじめとして丹後はもとより若狭・但馬なとの各地から厚い信仰が寄せられ、今なお斎宮と呼び親しまれてしる。 本社は享禄3年(1530)社殿ことごとく焼失し、現社殿は文政13年(1830)再建のものであるが、永い歴史や伝承とともに数多くの文化財が保存されていることでも高名である。 とりわけ、本殿をはじめとする建造物及び古文書は京都府登録文化財に、参道を含む自然環境保全地区として、さらに桃山時代の縁起絵巻及び平安時代とみられる経塚出土品等の町指定文化財など、優れた文化財が多い。 昭和61年9月 丹後町 丹後町教育委員会 社頭掲示板 |
竹野神社 竹野神社 郷社 字宮小字宮谷鎮座 (延喜式) 丹後国竹野郡 竹野(タカノノ)神社(大) (社 記) 祭神 天照皇太神 (丹後舊事記) 竹野神社 神主嶋左京 竹野村 長官櫻井甲斐守 従五位下六代 祭神 天照皇太神宮 末社 齋大明神 此所ハ開化天皇治メタマフ天下御代、丹波大縣主由碁理之府跡也、天照皇太神宮奉祝事ハ崇神天皇6年乙丑秋9月豊鋤入姫天照太神及ヒ草薙剣ヲ加佐郡奉移シ、大縣主由碁理奉神供領貢ぐ奉捧皇太神宮ニ六年ヲ経テ国ヲ移替ヘ給フ 此時豊鋤入姫有テ詫宣而此神供領以分宮與奉神也 摂社 齋宮神社 祭 神 日子坐王命 建豊波豆良和気命 竹野媛命 (神記) 齊女(イツキノオニ)者、大縣主由碁理ノ女、竹野比売始トス、此比売垂仁天皇宮仕年老テ皈本土ニ天照皇太神奉祭、此比売以奉齋大明神崇 (三代実録) 元慶元年12月29日乙未授丹後国正六位上竹野神山岐神従五位下 (考按) 竹野神は竹野神社にして山伎神は摂社なる齋宮神社を出伎と害し出の字を誤りて山伎と書きしならん、然らされば延喜式其他にも社名及地名なきを以て考ふればなり、然れども竹野神社は祭神天照皇太神、齋宮神社は齋女竹野媛を祀りたりとすれば、所謂主従の神に仝位階を授けらるゝこと如何、要するにいつきの宮祭神は猶豊鋤入姫などなるべきか国史に徴証なければ確ならざれど斯く仝位階を授けられ或は摂社に奉祀せらるゝなど高貴の御方なるべし (古事記) 若倭根子大毘々命由春曰之伊邪河宮治天下也、此天皇娶丹波之大縣主由基理女竹野比売 生御子比古田牟須美命云々 (大八洲記、神名帳考証、古事記) 開化天皇娶葛城之垂見宿蒲之女ワシ比売生御子建豊波豆羅和気王ヲ王者丹波ノ竹野別之租也、今在竹野村齋宮大明神と称す (丹後風土記) 當国青葉山中に有土蜘曰陸耳之御笠と者而、状無人民故日子坐王勅来りて伐之云々以来国人挙りて治平の神と称し崇敬し奉る (丹哥府志) 竹野神社 延喜式 本社二間四面本社の右に小社あり麻呂子皇子を祭る、本社の正面に石燈籠一対石階十級を下りて拝殿あり、拝殿の左右に回廊あり(右に神輿を納め左に絵馬をかける)回廊より起りて社の左右前後に塀を環らす、塀の左右に門あり回廊の前に石燈籠一対末社三座末社の前に石階九級を下りて駒犬一封石燈籠一封右より末社一座左に手水鉢并に石燈籠あり、其正面に華表及石橋あり、橋の右に下馬札あり下馬札の傍に石燈篭一基石燈籠の左に社司櫻井氏の宅あり、(末社の内に丸田の社といふあり虚櫻井氏大祖なり、昔麻呂子皇子に随従して夷賊を誅戮す今桜井氏は其子孫なり)櫻井氏の宅の前より道を挟みて松樹左右に連る凡五丁餘其間に華表二基あり、社記曰推古天皇の御宇加佐郡三上の嶽に?《私注・魚編に覃》古軽足土車といふ三人のもの多く凶徒を集め人民を害す、於是天息麻呂子皇子に命してこれを征伐せしむ(麻呂子皇子は用明天皇第三の皇子母は葛城直磐村の女なり、異母兄を厩戸皇子といふ所謂聖徳太子なり、母を穴穂部間人皇后といふ竹野郡の西間人村に由緒あり)其弟塩干松枝の二皇子(皇子の弟に来日皇子殖栗皇子田目皇子茨田皇子の四子あり今塩干松枝といふは何れを指していふや詳ならず)と同しく三上か嶽に向ふ、三上か嶽の凶徒遁れて竹野郡に走る麻呂子皇子これを逐ふて遂に盡く段す蓋海賊なり俗に鬼と称す、国人これか爲に窘らる年既に久しよって麻呂子皇子を齊宮(倭姫の齊祭る天照太神の宮是なり)に合せ祭り北狄守護神と崇め奉る今齋大明神といふ、(祭2月初午9月10日)其祭の日神輿三体を舁き出し右先を争ふて並木の間を行く其先に御旅所あり(還る時には各列を正し静かに歌ふて云齊宮祭リトテ、ヤヨカエリソーロ、ケイ モソーロ、ヒルニモソーロ。其太鼓の拍子、テンキ、テンキテンキヒヨリヒヨリ、サツサ愚按するに麻呂子皇子三上か嶽の夷賊を征伐する事国史に載せす然共皇子は征新羅将軍なり推古帝34年春3月より爾降らす秋7月に至り天下大に飢へ盗賊蜂起すといふ(日本史)是を以て考ふれば国俗の伝ふる處根依なきにあらず 齋 女 神社啓蒙云熊野郡市場村に齋宮の者あり女子生るゝ時は飛箭来り屋上に立其子四五歳の頃より齋ノ宮に奉る、これを齋女と称す既にして高山深谷の中に獨り禽獣と居る敢て畏るゝ事なし其天癸智見るに及ふ項大蛇出てゝ眼を瞋らす、是時宮を致して郷里に還る 神 馬 隠岐国鳥前(トリゼン)といふ處に渡辺助蔵といふものあり此者より神馬を奉る、神馬斃るゝ時は又重て神馬を奉る、古より今に相続して始終如此なり、始め神馬を奉る時奉納丹後国竹野郡齋宮といふ札を馬に付けてまづ伯耆の園江渡す夫より宿々相送りて齋宮に至る (神職櫻井氏寄書) 竹野神社と隠岐国渡辺氏との関係 隠岐は魚獲物に富み魚類海草類を各地に輸出し殊に間人村漁民の隠岐へ出漁せるもの多く間人港との船舶往来繁く交通早くより開けたり、竹野神社は丹後ノ明神と称す航海者の崇敬厚く、渡辺氏は牧場を多く有する富豪なれば隠岐島民の崇敬社として自然崇敬上の関係ならん、現在にても隠岐船舶の間人へ入港するもの参拝せさるはなし 神馬を献せられたる寄附状の写 寄附状は桐箱入にして神馬に負はしめ献せられたるも今其寄附状保存発見せす左に寄附状入箱を記す 隠州鴫前崎村 渡 辺 助 蔵 御 神 馬 寄 附 書 入 文政2卯6月13日 幟竿 丹波天田郡野花村に小田孫八郎といふものあり、祭礼に用ゆる幟竿の竿其者より年々奉る 蔵 寶 一鐙 二領 出図略之 一横 笛 ニ管 奥 院 齊宮の後山を中か尾といふ其上に小祠あり齊宮の奥院といふ、土人畏れで敢て登らず獨り齋女のみのほるといふ、何の事なりや (同社調沿革) 當社は国史に明かなる社にして延喜式、神明帳に大の社に列し遠近の崇拝者多く殊に武将の保護又は宮津出石舊藩主の崇敬ありて寄進物現存せり、又代官等も均しく崇敬せられし著名の社なり、然るに規模広大なる本社摂末社寶蔵諸建物及社司の宅をも享禄3年10月2日夜火災に罹り爲に悉く焼失せしを以て仮普請宮なりしが、文政13年3月現今の社殿を建造せり、依て當社の古文書は漸く寛文以後のものを保存せり、明治4年5月郷社に列し、明治40年3月1日京都府告示第八十四號を以て、明治39年4月勅命第九十六號に依り神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せられ、往古より陰暦9月10日の例祭日を制規の手続を経て陽暦10月10日に改定す 竹野郡誌 |
竹野神社 竹野神社 竹野字宮 天照皇大神を祭る。 摂社 斎宮神社には日子坐王命、建豊波豆良和気命、竹野媛を祭る。 この里は古代から朝廷に関係深く、人皇9代開化天皇(前158)の御宇、丹波大県主由碁理の府跡であり、由碁理の女竹野姫は開化天皇のお妃であったが、年老いて郷里竹野に帰り、天照大神を斎き祀ったことから斎宮神社として知られている。 延喜式内社竹野郡十四座の中、大一座の社格をもち、社記によれば第31代用明天皇(587)の第三皇子麻呂子親王が推古天皇の御宇に勅命を受けて加佐郡三上山の賊を亡ぼし北狭の守護神として崇められ、此の社に祀られている。建豊波豆羅和気王、日子坐王お二方は開化天阜の皇子であり、日子坐王は丹波道主命(四道将軍)の父君にあたる。 祭は2月初午・10月10日に行われ、秋祭には神輿三体がかつぎ出され、テンキテンキ等の行事が行われる。室町時代は武将の保護あつく、江戸時代も歴代の宮津・出石藩主と久美浜代官の武士の崇敬厚く寄進物もあった。また「丹後明神」として遠近の崇拝者多く隠岐の国の渡辺助蔵の神馬の献納、丹波野花村孫八郎の幟竿奉納のことなど記録されている。 丹後国諸庄郷保惣田数帳によると社領二反百四十四歩とあり、宝暦6年(1765)四反五畝となっている。 本社、摂社、末社、宝蔵諸建物及社司の宅は享禄3年(1530)10月2日夜火災に罹り悉く焼失した。 文政13年(1830)3月現在の社殿を再建した。明治4年(1871)5月郷社に列し明治40年(1907)神饌幣帛料を供進する神社に指定され、さらに、昭和6年9月16日府社に昇格した。 境内には門斎神社(祭神 櫛磐間戸神)、伊豆神社(祭神 大国主命、社司櫻井氏の祖)、稲荷神社(祭神 宇賀能魂神)、十二神社(祭神 伊奘冊神)、厳嶋神社(祭神 市杵島姫神)、上神明神社(祭神 天照皇大神)、下神明神社(祭神 豊受姫神)、大社(祭神 大国主命)、野々宮神社(祭神 野槌神)、愛宕神社(祭神 火産霊神()、矢崎神社(祭神 宇賀能魂神 稚産令神 保食神)の十一社がある。 境内に丸田社があり、麻呂子親王従軍した、桜井氏の体操祭る。今の桜井氏はその子孫である。現在の宮司、桜井利通氏は、桜井家神職58代目の当主である。 丹後町史 |