元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられている。 |
由緒 延喜式神名帳に坐す式内社。 第九代開化天皇の御子神日子坐王を奉り、住吉大神は大阪住吉大社より分霊を受け(1600年頃)浦島子神と共に鎮祭されている。 元宮は銚子山古墳に近い宮山にあり、享徳元年9月(1452年)現在地に遷座される。 元の本社の社殿は現在の蚕織神社であるが、現在の本社は大正14年再建、昭和18年に府社に昇格。 蚕織神社には養蚕神を宮中より分神をうけ、織物神は京都今宮神社の分霊を奉祀している。 境内神社は蚕織神社、早尾神社、愛宕神社、立脇神社、市杵嶋神社がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
網野神社 日子坐王・住吉大神・水江浦島子の3神を祀る。銚子山古墳近くの旧社地から享徳元年(1452)9月現地に奉遷された。 境内社蚕織(こおり)神社は、宮中紅葉山の養蚕神の御分神と京都今宮神社の織物神の分霊を奉斎し、大正14年4月創建された。早尾神社は天湯河板挙命を祀り、かっては秋の彼岸の中日を例祭日とし、竹市と相撲などがあった。 社頭掲示板 |
網野神社 当社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であるので創立は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。 現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。 公式HP |
網野神社 網野神社 (延喜式内社・旧府社) 御祭神 日子坐王(水江日子坐王) 住吉大神 水江浦鳴子神 御由緒 当社は延喜式内社であるので創立十世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを亨徳元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。 現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造の正面千鳥破風と軒唐破風付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。 日子坐王(水江日子坐王) 日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代崇神天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波国(古くは丹後も丹波国に含まれていました)に派遣されて上蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、国造りをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかとも伝えられています。 住吉大神 伊邪那岐神の禊の時に成った上(麦)筒男命・中筒男命・底筒男命の三神を住吉大神と申し上げます。神功皇后の新羅遠征を守護したことから、特に海神として尊崇されています。 また、網野神社の住吉大神の縁起には、古代に日本海経由で来着したという説や近世になって河田金右衛門が泉州堺(現在の大阪府堺市)から勧請したという説などがあります。 水江浦嶋子神 水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。 網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町浅茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされるしわ榎(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております。 社頭掲示板 |
網野神社 網野神社 村社 字網野小字大口鎮座 (延喜式)竹野郡、網野神社 (神社明細帳)祭神住吉神社 水江浦島子神 由緒 創立不詳網野神社の由来を尋ぬるに、垂仁天皇天下を知食御代天湯川板挙命但馬國より、當地水江に來り彼の浮べる白鳥を取り奉り鎮守と爲さんて墨ノ江水笑(ミツノエ)の松原村遠津神に御所誓ありて此水江に網を張りしにより後に水江網野とは称すと傳ふ、今網野郷細野村の西に當る湖水を村人川績海(カヅミ)と称し、東湖水を離レ池と傳ふ、東北は海濱にして北海に島なしと傳へて海中にタ日を拝するより墨ノ江とは言ひ傳ふ、東に鳥取郷鳥取村あり、元つ社地園領家は砂に埋るにより墨江浦濱に奉遷座、享徳元壬申年九月取立願主松原太夫と傳ふ、往古福田村、松原村は當社氏子也福田、松原と云ふ地今にあり、 水江浦島子神の由來を尋ぬるに、此島子が祖先より御親捕島太郎と云ふ人の家居せし地なりとて、今網野村字福田のソノと云ふ地名あり、浦島子毎日釣を楽みくらせしかぱ終に海神の都に通ひ、数年を経て帰郷せし神なり、今福田の園といふに島子の皺榎木といふあり、皺をこの榎に投け附け終に老衰して死す 一本殿 梁行六尺三寸 桁行一間五寸 一拝殿 仝二間 仝五間三尺 一上屋 仝三間二尺 仝四間 一境内坪數 千七百七十八坪 一氏子 三百八戸 (社記)祭神 水江日子座王命 住吉大神 水江浦嶋子神 水江日子座命は往古根元宮山に鎭座ありしを、現今の社へ遷し奉り毎年9月13日の例祭日に根元宮山へ神輿を渡御し本社へ還御奉仕、是を網野神社の旧式祭典とす、 住吉大神は住吉宮の奥に鎮座ありしを現今の社に遷し奉ると、 水江浦嶋子神は往古浦嶋新宮山に鎭座あり能野(ヨシノ)神社と稱せしを現今の社へ遷し奉ると、 以上の三社を享徳元年9月13日に合併奉遷座取立大願主松原太夫 明治6年2月10日村社列格(豊岡縣) 明治40年3月1日幣饌料供進指定(京郁府) (國名風土記) 丹波國阿佐茂川之東網野邑祭所神一坐水江浦嶋児也 (丹後旧事記) 祭神住吉大明神、水江浦島児 (大日本地名辞書) 神祇志料云今浦嶋大明神といひ、又淺茂川明神といふもの是なり、蓋日下部首の祖彦坐命を祭る、按ふに長明の無名鈔に、伊佐茂川神は浦島翁のなれる也とある浦島翁は世に言傳ふる筒川嶼子が事にて、其説は信じかたけれど、此嶼子を釈日本紀に引ける丹後風土記には、日下部首の祖神をば祭れるより、世に浦島子と謬り傳へたるなるぺし、日下部首依羅宿彌並に仝祖なれぱ、殊に網野といふに由ありて聞ゆ 竹野郡誌 |
網野神社 網野神社(式内・府社) 網野小字大口鎮座 祭神 水江日子坐王・住吉大神・水江浦島子神 水江日子坐王命は往古根元宮山に鎮座、住吉大神は往古宮ノ奥に鎮座、水江浦島子神は往古浦島新宮山に鎮座し熊野神社(一説吉野社)と称していたが、享徳元年(1452)9月、現在地に合併遷座したと伝えられる。(「社記」) ※その他網野神社祭神についての諸伝 (二神説) 住吉大神・水江浦島子神(「神社明細帳」『丹後旧事記』『丹後一覧集』「丹後式内社垂遊本源考」) (四神説) 日子坐王命・相殿天湯川桁命・浦島子神・住吉三筒男神、国内神名帳正四位下網野明神ト見エ、元亭子山(ちようしやま)ノ南、宮家(みやけ)ノ山上ニ日子坐王ヲ祭リシテ、天湯川桁命但馬国ヨリ此ニ来リ松原ニ綱ヲ張リ日子坐命ノ神霊ニ祈誓シテ水江ニ浮ベル白鳥ヲ取り垂仁帝ニ奉リシヨリ松原ノ地ヲ網野ト称シ、神社ヲ其奥ニ移シ奉ル(「丹後国式内神社考案記」) 注一 住吉大神は「住吉三神」又は「墨江三神」と称され、底筒男命・中筒男命・表筒男命をいう。 二 宮家(みやけ)の地名は「宮毛」とも当てる。「屯倉」の訛伝であろうか。 (一神説)…それぞれの一神のみを祀るとされるが、「四神説」の誤伝かもしれない。 ○日子坐命(「神祇志料」) ○大湯川桁命(「丹後式内神名改」「丹後国式社証実考」) ○浦島子(「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「本朝諸社一覧」「神社覈録」『大日本神祇志』『田辺府志』) ○住吉大明神(『丹哥府志』)…寛平法皇の神霊を祀る… (いまひとつの住吉神説) 延宝5年(1677)9月河田金石衛門(太良左衛門とも)探ク住吉明神ヲ信仰シ泉州堺ヨリ住吉三筒男神ヲ勧請シテ当社相殿ニ併セ祀ル−後略−(「考案記」)(河田氏は、当時「本覚寺」の檀頭でもあった。) (永浜宇平「郷土と美術」二三号網野神社の考察=j 注 しかしながら住吉大神は(イ)説のように、「往古宮ノ奥ニ鎮座」されていた訳で、河田氏説も採るとすれば、おそらく古代「日本海経由で来着、すでに祀られていた住吉神」に重複して、新たに泉州堺から、「瀬戸内経由で入った住吉神」を勧請再祀したことになる。両説には略一〇〇〇年のひらきがあろう。 由緒 網野神社は延喜式内社(以下式内と略記)であるので創立は10世紀以前とみられる。元の社地は銚子山古墳東南の根本(ねもと)宮山で「園(その)」という所。しかしこの場所は飛砂に埋もれそうになったので、享徳元年9月、現在地墨江浦浜に遷座したのである。 注 「墨江浦浜」とは現在の「小字大口」付近を指すのであろうか。元の社地から現在地に移ったことについて、享徳元年の当社の棟札に 『本在所園領家(そのりょうけ)砂ニ理マルニヨリテ墨江浦浜創中(ママ)森境内奉遷座之 享徳元壬申年9月大工棟梁奥東弥四郎 取立願主松原住松原太夫』とあり、又別に『網野明(ママ)二時(明治2己巳年3月)右之棟札を取調候処 墨跡薄く 立合之上 水をかけ漸く写書取置候』(後略)とある。この棟札は当社に伝わる唯一の証拠である。 補注 明治6年(1873)2月10日村社列格(豊岡県)、明治40年(1907)3月1日幣饌料供進指定(京都府)、(中略)当社は昭和14年から昇格運動を続け、昭和18年(1943)10月1日付を以て府社に昇格した。 社名について 社名は地名から発しているので、まず「網野」という地名の起こりをかんがえてみると、「神社明細帳」に垂仁天皇の御代、天湯河板挙命が水江に浮かぶ白鳥を捉えて鎮守にしようとして、松原村の遠津神に祈って水江に網を張ったというところから「網野」という−とある。 この「網野」という地名は天平勝宝4年(752)の正倉院文書「竹野郡網野郷」を初見として、「和名秒」(938)にもみられる。また「網野神社」という社名は「節用集神社啓蒙」「湯島道之記」「丹後宮津志」「神名帳考記」「三才図絵」「丹波国図」「丹後風土記」「長明無名抄」等々にも記されているという。(編注 神名「住吉」は、スミノエとも読めることから、「墨の江・澄の江」などの地名と一致する) 祭礼 例祭日は元来10月31日(陰暦9月13日)であったが現在は10月10日。 氏子数は昭和9年に700戸ばかり、昭和50年代1400戸以上。 当社は代々森氏が宮司を世襲していた(延宝5年=1677=神主 森左衛門の板札あり)が、現在の宮司は行待氏である。 付記 例祭当日、宮司は御神体を捧持して、銚子山南の元宮まで御旅をする神事を行う。 注一 当地の古い記録としては、祭神・由緒のように、これらの神々の元社地が銚子山付近に在ったとされているが、巨大な前方後円墳としての銚子山と神々との間に、なんらかの相関はないのだろうか。 いずれにしてもこの辺りが『網野』の発祥地であったことは、考古学的にもほぼ実証されており、またこの区域が当時大きな入江、(水の江・澄の江)の畔であったことも忘れてはならない事実であろう。 二 右のように「天湯河板挙命」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では山辺の大タカ≠ニいう名で現れる) 「垂仁帝の子誉津別王は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を迫ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした) 但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を追った道筋は、但馬八鹿町の網場(なんば)(和那美神社)、豊岡市森尾(阿牟加神社)、同下宮(久々比神社)を経て網野に到り、鳥取(現弥栄町?)でこれを捕えたというものである。 当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾神社」神として祀っている。 (ただ塩江の早尾稲荷社は祭神が異なる) 注・「久々比(くぐい)」とは白鳥のこと。 ・右の伝承では「網場」「和那美」(ワナの綱)、「阿牟加」(網の場所)、網野など、「あみ」がキーワードとなっている。(網野の小字名「南浜(なあば)」も網場の転かもしれない) ・民俗学では白鳥伝説を「鍛冶伝承」とみる。(白鳥伝説″末文献)−例えば、弥栄町鳥取付近に、広大な遠所製鉄遺跡が発見されたように− 網野町誌 |