溝谷神社
みぞたにじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】溝谷神社 丹後国 竹野郡鎮座
   【延喜式神名帳】奈具神社 丹後国 竹野郡鎮座

   【現社名】溝谷神社
   【住所】京都府京丹後市弥栄町溝谷46-2
       北緯35度39分20秒、東経135度6分41秒
   【祭神】須佐之男命
       『丹哥府志』新羅大明神
       『丹後旧事記』「祭神新羅大明神・素盞鳴命」
       本來の祭神は豊加能売命ではなかつたか(糸井通浩氏)

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇神天皇の御代丹波道主命が創祀
       丹波道主命の子大矢田宿禰改築し新羅大明神と崇め奉る
       元慶元年(877)12月29日従五位下(三代実録)
       永萬元年(1165)、平重盛武運長久祈願のため再建
       天正年間(1573−92)織田信長社殿改築
       明智光秀花崗岩の石燈籠献納(重要文化財)
       文久3年(1863)3月勅願により「夷狄退散天下泰平」の御祈祷
       明治2年4月再建
       明治6年2月村社
       明治40年3月1日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「新羅大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・割間拝殿

   【境内社】大宇加神社・棚機(たなばた)神社・布津主神社

相殿に延喜式内、奈具神社を祀る。
奈具神社は嘉吉3年(1443)の大洪水で亡村以来奉祀されていたが、明治6年6月、式内号及び靈石を船木奈具神社に移した。
元治元年(1864)3月から5月まで、神事潔齋し尊体安全の御祈祷を執行し、同年6月御祓御供を局会所を通じて献上した。この年から毎年、天皇陛下の宝柞萬歳の御祈祷を仰せ出され、御撫物(オナレモノ)・御用札をお預かりし、御祈祷料として白銀三枚を拝受した。その後も毎年長期御祈祷を執行し、翌年3月17日当社より大麻及び御神供を献上し、同時に御撫物・御用札の交換を仰せ出された。式法行事ば明治3年まで継続したが、明治4年太政官布告発布と同時に廃止となつた。


溝谷神社

崇神天皇の御代、丹波道主命、當國に派遣され當地方平定後、土形の里に國府を定め居住せらる。或時神夢の教あり、眞名井のト(北)ヒツギ谷に山岐神(ヤマノカミ)あり、素盞鳴命を以て三宝荒神と齋き奉らば天下泰平ならんと。丹波道主命、神教に從い丹波の國、眞名井のト。ヒツギ谷の麓の水口に新宮を建て齋き奉る。因つてその水の流れる所を溝谷の庄という。外(トノ)村の旧名トの邑といいしが、眞名井のトが外の字に変つたものならん。其後、丹波道主命の御子大矢田宿禰は、成務、仲哀二帝及び神功皇后に仕えて神功皇后の三韓征伐に從い新羅に止まり、鎭守將軍となり新羅より毎年八十艘の貢を献ず。其後歸朝の時風濤激浪・山をなし、航海の術なきに苦しみし時、素盞鳴命の神徳を仰ぎ奉り、我れ此度恙なく歸朝せば新羅大明神と奉崇せんと、心中祈りければ激浪変じて畳海となりて、恙なく歸朝せるを以て直ちに當社を改築せられ新羅大明神と崇め奉る

社記



溝谷神社

溝谷神社 村社 字ヒツイ鎮座
 (延喜式) 溝谷神社
 (丹哥府志) 溝谷神社は今新羅大明神と称す
 (神社明細帳) 祭神 須佐之男命 天照皇大神 豊宇加能売命
 創建不詳、明治2巳年4月再建、溝谷村及等楽寺村、吉津村の内七戸合して423戸の氏神なりしが其後船木村は分離したり、明治6年2月村社に列す、相殿に延書式内奈具神社祭神畳宇賀能売命にして元奈具村の鎮座なりしに、嘉吉3癸亥年非常の暴風雨にて山崩大洪水に依て元奈具社は溝谷神社へ合併す、而して奈具村は亡村となる、其際奈具神社は溝谷神社へ引移し相殿に奉祀す、就中奈具村より引越せし者現今溝谷村に23戸相続の者は奈具神の氏子なりしに明治6年癸酉2月中舊豊岡県管轄中、元教務省より命令有之旨を以溝谷神社相殿にある奈具神社の霊石と式内號を船木村の奈具神社へ移転すべき旨達に依て、同年6月中式内號、霊石を船木村へ引移す、
明治40年3月1日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる
一本  殿  染行二間四寸 桁行二間一尺五寸
一拝  殿  仝 二間三尺 仝 六間三尺六寸
一境内坪数  千五百三十八坪
一境外所有地
  田 三畝十三歩     字日津井谷
  田 二反四畝歩     字 馬 場 谷
  畑 参畝二十二歩    仝
一氏  子 三百七十七戸
(丹後旧事記)
 溝谷神社   溝谷庄外材
 祭神  新羅大明神 素盞嗚命
 延喜式小社牛頭天皇新羅国より帰朝有けるを祭りし神號なり、勧請の年歴いつよりと言事を知らず
(社記) 創立不詳當社の古文書は火災の爲め焼失せしに付往昔の由緒は不詳と雖、人皇10代崇神天皇秋七月将軍丹波道主命當国に派遣せられ土形の里に国府を定め居住あり、或時神夢の教あり眞名井の卜(卜ハウラ又ハキタトモ云)のひつき谷に山岐神あり、素盞嗚命の孫粟の御子を以て三寶荒神として斎き奉らげ天下太平ならんと、道主命神教に従ひ丹波国眞名井卜日ウキ山の麓の水口に粟御子を以て三寶荒神と崇め奉る、其後粟の御子は水口の下に新宮を建てゝ此處より斎き奉る、囚て水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ、溝谷村字溝谷を舊名外邑と云ひしは真名井の卜と云ふ卜の字を外の字に誤りて云ひしものと、其後丹波道主命の子大矢田宿祢は成務仲哀二帝神功皇后に仕へて三韓征伐に従ひ新羅に止り鎮守将軍となり新羅より毎年八十艘の貢を献す、其後帰朝の時風濤激浪山をなし航海の術なきに苦みしに素盞嗚尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば新羅大明神と心中に祈願を結びけれは激浪忽ち変じて蒼々たる海となりて無恙帰朝しければ、直ちに當社を改築せられ新羅大明神と崇め奉る
人皇78代永萬元年乙酉大政大臣平清盛の嫡子平重盛丹後守に任せられし時、當国與謝郡府中村小松に舘を造築せられし時武運長久の爲め新羅大明神を御信仰遊はされ當社を御再建なされたりと、其後天正年中織田内大臣信長公先例に任せ當社を改築せられ新羅大明神の御神号を額面に書き鋳造して納めらる、其扁額今尚ほ保存す明治2年に至り當社を改築す、當境内に明智光秀の奉納せりと称する石燈龍一基あり文久3年3月勅願により夷狄退散天下泰平の御祈祷を執行し同年6月上旬、御祈祷御祓壹箱並に御神供壹箱献上し御祈祷料として金千四百疋禁裏御所より御下賜の栄を受く、元治元年甲子年3月より5月下旬迄神事潔齋し、王体御安全之御祈祷執行し同年6月4日御祈祷御祓壹箱御神供壹箱御局会所へ献上す
一御撫物       一箱
一御会付       壹枚
一白銀        参枚
右は元治元年の拝領にして此年より毎年3月 天皇陛下御寶柞萬歳の御祈祷被出仰 御撫物御会付を預り奉り御幣物料を拝受し長日御祈祷執行仕り翌年3月17日、御撫物及御曾付御交換披仰出其際當社大麻御神供奉献の式法行事を明治3年に至る迄毎年被仰出、明治3年3月18日宮内省より例に依り御撫物及御曾付御交換せられ御幣物料を拝受し、其際當社大麻御神供等献じ奉りしに明治4年に至りては大政官の御布告を以て被爲廢、
寶  物
一御 撫 物       壹 箱
  一御 合 符        一  枚

竹野郡誌



溝谷神社

溝谷神社 外村ヒツギ鎮座
 元村社
 祭神 新羅大明神(須佐之男命)
    奈具大明神(豊宇気能売命)
    天照皇大神
当社は旧溝谷村三部落の氏神で延喜式内所載の古社である。
由緒
丹後旧事記 神社明細帳及び当社に伝わる記録によれば、
「人皇十代崇神天皇の御代(約2060年前)丹波道主命、当国に派遣され当地方平定後、土形の里に国府を定め居住せらる。或時神夢の教あり、真名井のト(北の意)ヒツギ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞嗚命を以て三宝荒神と斎き奉らぽ天下泰平ならんと。丹波道主命、神教に従い丹波の国真名井のト。ヒツギ谷の麓の水口に(当時は丹後も丹波という)新宮を建て斎き奉る。因ってその水の流れる所を溝谷の庄という。外村の旧名トの邑といいしが、真名井のトが外の字に変ったものならん」とある。
「其後丹波道主命の御子大矢田宿弥は成務、仲哀二帝及び神功皇后に仕えて神功皇后の三韓征伐に従い新羅に止まり、鎮守将軍となり新羅より毎年多量の貢物を献ぜしめた。其後帰朝の際風濤激浪山をなし、航海の術なきに苦しみし時、素盞嗚命の神徳を仰ぎ奉り、我れ此度恙なく帰朝せぽ新羅大明神と奉崇せんと、心中祈りければ激浪変じて畳海となりて、恙なく帰朝せるを以て直ちに当社を改築せられ新羅大明神と崇め奉る」とある。
したがって当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅将軍大矢田宿弥の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである。
相殿に延喜式内奈具大明神を祀る。この祭神は丹後旧事記によれば、「中郡比治の嶺真名井に天降った天女の一人で苦労を重ねて泣く泣く或一村に着き、静かに茲に住み終に身を終る。是れ豊宇気能売命なり」とある。泣く村より奈具村となり奈具大明神として祀ったようである。嘉吉三癸亥年(五百二十年前)非常な暴風雨のため、山崩れ大洪水等の災害があり、そのため奈具村は亡村となり、奈具大明神は溝谷神社に遷し、相殿に合祀することとなった。したがって明治初年ごろまでは毎年秋の例祭には、船木より代表者が参拝したものである。
 この際溝谷及び外村に移住したもの23戸で氏子となったと記されている。その後天保3年(135年前)船木奈具神社より式内号及び霊石返還の争議があったが、藩庁の裁きによって事なく経過していたところ、明治6年2月豊岡県管轄当時神祇省から溝谷神社に合祀した奈具大明神の式内号及び霊石を船木奈具神社に移転するよう通達があって同年6月移した。しかし溝谷神社にも今な相殿に奉祀する。
溝谷神社は明治4年村社に列し同40年3月神饌幣帛料供進し得べき神社に指定された。
皇室との関係
当社は勅願により文久3年3月『夷狄退散天下泰平』の御祈祷を執行し、同年6月上旬御祈祷御祓一箱御供一箱を献上し、御祈祷料として金千二百疋也を禁裏御所より御下賜された。次に元治元年3月より5月まで、神事潔斉し尊体安全の御祈祷を執行し、同年6月御祓御神供を局会所を通じて献上した。この年より毎年天皇陛下の宝酢万歳の御祈祷を仰せ出され、御撫物(陛下のお体に代るもの)御用札(神官の御所へ司候の際道中使用した看板)をお預りし、御祈祷料として白銀三枚を拝受した。
その後引続き毎年長期御祈祷を執行し、翌年3月17日当社より大麻及び御神供を献上し、同時に御撫物、御用札の交換を仰せ出された。式法行事は明治3年まで継続したが、明治4年太政官布告発布と同時廃止となった。
明治4年廃止の際お預りしたまま神社に保管した。御撫物及び御用札は今なお社宝として現在に及んでいる。
武将の崇敬
人皇78代二条天皇の永万元年(800年前)太政官平清盛の嫡子平重盛丹後守に任ぜられ、与謝郡府中村小松在に舘を築造して丹後を統治した時、武運長久祈願のため新羅大明神を信仰し当社を再建されたという。
その後天正年間(約390年前)織田信長は当社の信仰とくに篤く、先例にならって社殿を改築され、新羅大明神の神号を書し、額に鋳造して奉納された。この額面は中央に新羅大明神の神号左に信長の花押があり、現在も社宝として保管されている。
その他惟任将軍明智光秀もまた新羅大明神の信仰篤く、神明の加護により願望成就の暁はさらに一基を献納しようとただ一基のみ奉納したと伝えられる花崗岩の石灯籠がある。この石灯篭は大東亜戦争前、当時の京都帝大教授西田博士の鑑定の結果国宝級と折紙をつけられ、まず順序として重要美術品指定の手続をするよう勧められ、直ちに手続きの結果前重要美術品(現在の重要文化財)に指定され国の保護を受けることになっていた。
神位所領
三代実録という古文書の元慶元年12月29日乙未の条に曰く「丹後国竹野郡正六位上新羅大明神に従五位下を授く」
とあり、職員令によれば従五位下の神は八町四方の社領を賜る法則で二百五十石の領名なりと。また口碑に伝えるところによれぽ当社は昔千百石の黒印地を所持したことがあったというが証拠はない。
社宝
一、御撫物(陛下のお召しものの一部)
一、御用札(御祈祷大麻神饌等を御所に献納の際神官一行の先頭に使用したもの)
一、拝領白銀(祈祷料として御所より拝領したもの)
一、鋳造神号額(武将織田信長の寄進と伝え花押あるもの)
一、石灯籠(前重要美術品指定明智光秀寄進と伝うるもの)
一、本殿
一、拝殿
一、割間拝殿
一、境内坪数千五百三十八坪

弥栄町史



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