「丹後国風土記逸文」に記載されている「奈具社」 八人の天女が比治山の上にある、真奈井の池で身を清めていたという、この地に住む和奈佐(わなさ)と言う老夫婦が、丁度行き合わせ、そっと一人の天女の羽衣を隠してしまった。 羽衣のある者は天に戻ってしまったが、残された天女は、水に身を隠していた。老夫婦は天女に向かい「私たちには子供がない、どうか私達の子供になって下さい」と頼んだ。 天女は「私一人、下界に取り残されてしまいました、この上は、お言葉に従います」と言い、それから10年ばかり一緒に暮らした。 この天女は、万病に効くという酒を造り、そのことにより老夫婦は大そう金持ちになった。 ある日、突然、天女に向かって「お前は、わしらの子ではない、家を出て行け」と言う、天女は「自分から望んで、子供になったわけではない、頼まれて子になった、なぜ、今になってその様なことを言うのか」と言ったが、許してくれない。 嘆き悲しみ、家を出てさ迷い歩き、竹野郡舟木の里の奈具の村に来て「やっと私の心は、なぐしく(おだやかに)なりました。」と言いとどまった。 この天女が「奈具神社」に祭られている豊宇賀能売命であると言う もとあった奈具村、旧船木村は、嘉吉年間(1441年-1443年)の洪水で消失。 『止由気宮儀式帳』にある「比治真奈井」、『倭姫命世記』にある「与佐之小見比治之魚井原(与謝郡比冶山頂麻奈井原)」に比定される、候補地の一つとされる。元伊勢であり、外宮の元宮の論社の一つ。 |
奈具神社 延喜式内奈具神社の祭神について むかし、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願され比治の里にとどまり、万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、汝は我が子ではないと追い出してしまいました。 天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行き方しらずも と詠って、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。そして、「此処にして我が心なぐしく成りぬ」と云ってこのむらを安住の地としました。此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって豊宇賀能売女として祀られました。これが竹野の郡の奈具の社です。 以上が奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の縁起です。 社頭掲示板 |
奈具岡遺跡 弥栄町の奈具岡遺跡では、水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期(約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。この遺跡からは、水晶をはじめとする玉製品の生産工程の各段階を示す未製品や、加工に使われた工具類などが多数出土した。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉である。ここでは、原石から製品までの一貫した玉作りが行われており、国内有数の規模と古さを誇る。大規模な玉造工房が稼動していたのである。 http://inoues.net/tango/naguoka.html |
奈具神社 奈具神社 村社 字船木鎮座 (延喜式) 竹野郡 奈具神社 (丹後旧事記) 奈具神社 婦哭庄奈具邑 祭神 奈具大神神 豊宇賀能売命 延喜ノ名神大社豊宇気比売死給跡也 今船木庄と書は非也 (丹哥府志) 奈具神社 延喜式 奈具神社今奈具大明神と称す、風土記に云比沼山の頂に井あり眞井といふ今既に沼となる此井に天女八人天降り水を浴す是時に和奈佐といふ老夫婦あり窃に一人の羽衣をかくす、其羽衣あるものは皆飛去りて天に登り獨り羽衣を失ふものは天に登る事能はす於是老夫天女に謂て曰我に子なし汝よく我子になれといふ、天女の曰妾獨り羽衣を失ひけれほ今天に登る事能はす當に君が言に従ふへし請ふまつ羽衣を還し給へといふ、老夫これを疑ふて衣裳む渡さゞれば天女のいふ凡天人の心は信を以て本とす豈君を欺かんや、老夫の云疑多して信なきは率士の常なり是以て衣裳を還さず実に欺事なくんば遣すへしとて則衣裳を渡し遂に携へて家に帰り留る事十餘歳、天女よく酒を醸る僅に一盃飲めば万病悉く除く其酒の樽を車に積みてこれを送るよつて其家豊に土形富めり故に其里を土形の里といふ、後に老夫のり心変り汝は我子にあらす早く去るべしといふ、於是天女天を仰きて怨慕して曰我私意を以て来るにあるず、然るに我に去れといふ、今我如何すべけんやと遂に歌を作りて曰 天の原ふりさけ見れは霞たつ 家路まとひて行衛しらすも 既にして荒塩村に到り村人に謂て曰老夫の心を思ふに荒塩に異なる事なしといふよつて其里を荒塩といふ(今の荒山)荒塩より又一村に至り槻木に依て哭く此處を哭木といふ(今の内記)哭木材より又一村に至る其處を婦哭といふ(今の船木)と云々今奈具大明神と称す、祭9月朔日 (深田村誌稿) 明治4年2月10日村社に列せらる、祭神は豊宇賀能売命なり (神社明細帳) 祭神 豊宇賀能売神 再興享保4年9月、寛政5年3月 明治4年5月村社に列す 明治44年5月30日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる 本 殿 梁行二間二尺五寸 桁行三間一尺八寸 拝 酸 仝三間 仝一間四尺七寸五分 域内坪数 千二百十三坪 竹野郡誌 |
奈具神社 奈具神社 元村社 字船木鎮座 祭神 豊宇賀能売命 風土記及丹後旧事記によれば、 「比治の嶺に池ありその名を真名井という。此の池に天女八人降り来りて水を浴す。時に夫婦有り、和奈佐老父和奈佐老母と云ふ。此の池に至ってひそかに一人の衣裳をかくす。則ち衣裳ある天女は飛び去り衣裳なき天女一人水に身を隠し愧を抱きける。茲に於て老父天女に曰く、我に子なし汝を請じて子となさん。天女曰く、妾独り衣掌を失ひ今天に登る事を得ず。当に君が言に従ふべし(中略)。遂に携へて家に帰り相住む事十余年、天女よく酒を醸し僅に一杯飲めば万病悉く除く。醸酒を価に替へて富貴になりしを以て枡富の里と云ふ(中郡鱒留)。後老父の心変り汝我が子にあらず、はやく出去るべし。茲に於て娘天を仰ぎ地にかなしんで曰く、妾私意を以て来たるにあらず、然るに今我に去れと云ふ。妾如何にすべけんや。老父益々怒って早く去るべしと云ふ。天女嗟嘆して天を仰ぎ歌って曰く 天の原ふりさけ見れば霞立つ 家路迷どひて 行方しらずも 斯く歌って遂に家を去る。既にして一村に至り村人に謂って曰く、老父婦の心を思へば荒汐に異なることなしと。故に此の里を荒汐の里と云(今の荒山)。荒汐より更に一村に至り、槻木によって哭く。故に此村を哭木という(今の内記)。哭木村より又一村に至り更に哭く。婦哭くを以て婦哭の里と云う(今の船木)。茲に至って我心をなくし(平然となったの意)(奈具の地名に通ずる)と静かに住み、終に此処に於て身を終る。是所謂豊宇気能売の命なり。」 とある。そこで真名井に天降りした天女の一人則ち豊宇気能売の命は婦哭の庄奈具村において死なれたので、此の地に奈具大明神と奉祀したようである。 再建棟札享保4年9月(250年前) 寛政5年3月記録の再建の棟札がある。 本殿 梁行 3m20cm 桁行 6m30cm 拝殿 梁行 5m45cm 境内坪数1023坪 明治4年5月村社に列する。 明治44年5月30日神饌幣帛料供進し得へき神社に指定された。 弥栄町史 |