当社は、伊勢外宮の元社であると考えられている。 用明天皇の第3皇子である麻呂子親王が当地の鬼を退治するに際して、内宮(現皇大神社)とともに勧請したものであるとの異伝もある。 |
由緒 当社は、豊受大神をお祀りする神社で、正式社名は豊受大神社であるが、一般にその上に元伊勢外宮を冠してお呼びしている。大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、崇敬者に篤き御加護を垂れさせ、給う大神に座します。社伝によれば、元伊勢内宮皇大神社に奉斉する皇祖天照大御神は人皇第10代崇神天皇39年に「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」と御神勅を下されたので、それまで祀られていた大和国笠縫邑より当地(大江町字内宮)に遷幸されたのであるが、此の時同時に豊受大神を当船岡山に合せ祀られたのが当社の創祀であり、いま(平成5年.1993年)から2051年前のことである。 境内は一名比沼の真名井ケ原と称へ孤立した一丘陵を形成し御神霊の鎮まり座すに相応しい神秘な霊域で一万余坪の御山である。 天照皇大神は四年間御鎮座になりましたが、さらに大宮地を求めて当地を出御され第11代垂仁天皇25年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と崇められ御鎮座になった。しかし乍ら豊受大神は御鎮座以来移動がなくこの真名井ケ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されたきた。ところが536年後の第21代雄略天皇22年に皇祖天照大神の御神勅が天皇に下った。その御神勅は「われすでに五十川上に鎮り居ると雖も一人にては楽しからず神餅をも安くきてしめすこと能はずと宣らして丹波の比沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告げであったので、直ちに伊勢国度会の山田ケ原に外宮を建てられ、豊受大神を御遷座になったのである。今から数えて1513年のことである。しかしながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は引き続き大神の御分霊を奉斎して元伊勢外宮などと尊称し現在に及んでいる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
豊受大神社 豊受大神社 祭神=豊受姫命 相殿=日子番能迩迩芸命 天児屋根命 天太玉命 由緒=当社は雄略天皇の22年天皇親しく天照大神の神誨を受け丹波国丹波郡比治の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に遷し奉った時暫く河守庄天田内の里である船岡山に鎮座ましましたのに起因する由碑に残ってゐる。 又世俗の説に加佐郡は元与謝郡であって尚古くは丹波丹後一国であった。丹後国与謝郡の隣加佐郡丹波堺川の森の庄(今文字作河守)天田内村に外宮があって元両大神宮鎮座の跡であるとも云ふ。又神社啓蒙に「与謝宮在丹後国与謝郡川森所祭神一座」とある。 勧進年月詳でないが按ふに暫時鎮座の後社頭今日の如く興隆して来たものの様である。社殿造営の儀は式年61年目を以て改営して来たか明暦2年国主の信仰によって修補あったものゝ如く左の棟札に残ってゐる。 明暦2年4月吉旦 神 楽 所 奉建営 大神宮本殿 国主四位侍従源朝臣高國 御 供 所 右爲征夷大将軍源家綱公疱瘡平癒耐願也 明暦2年9月吉旦 奉造立 齋藏 国主四位侍従源朝臣高国 右爲国家安全祝願也 以後は式年毎に諸国信仰の輩有志相募り改営して来たと云ふ。 一、境内神社 土宮神社(祭神大神)外四十一社 加佐郡誌 |
豊受大神社 豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれる。祭神は豊受大神、日子番能迩々杵命、天児屋根命、天太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばらになったとはいうやはり大社の様相を留めている。 天照大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水による御饌の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄略天皇の21年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波から豊受大神を御饌津神として伊勢の山田原に迎えたのが伊勢外宮のはじまりであるが、ここ豊受大神社はその元つ宮だと伝えられている。近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受太神宮鎮座初の地にして、雄略帝21年神託有て翌年勢州山田原に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」には、「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊瓊杵命 右天児屋根命、雄略天皇ノ御宇建立、養老5年9月初奉宮幣 人王33代推古女帝21丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。神社明細帳には、雄略天皇の22年、天皇が神悔を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく舟岡山に鎮座したのに始まるとしている。 豊受大神社社殿 所在地 大江町字天田内小字東平178ノ1 規模形式 本殿、三間社神明造、茅葺き。 神楽殿、桁行19.8m 梁間5.0m 寄棟造、柿葺(こけら)(銅板仮葺) 当社は、外宮(げくう)ともよばれ、集落にほど近い舟岡山の上にある。鎌倉時代ごろから伊勢神道では伊勢の外宮を丹波与佐宮から移したとしたが、当社の社伝ではこの与佐宮が当社にあたるとする。そこで元伊勢とも称している。境内は、本殿とこれに接する拝殿を中心に、四方に別宮として多賀・月読・士・風の各神社があり、これらを囲むように小さな末社三七社が配される。神楽殿はこの一廓より少し低く、表側参道沿いに建ち、後側に囃子方席、横側には花道や楽屋が付属する。三七の末社は、御師的な役割をはたす三七の社家が祀っており、社家の活動により広い信仰圏がつくられたらしい。 本殿は、棟札からみると、明暦2年(1656)上葺き、寛保2年(1742)と文化4年(1807)に造替があり、現在のは明治7年(1874)の建立になる。外観は神明造の特徴をよく備えているが、平面に外陣側面と内陣境に片扉を設け、外陣機能の発達がみられる。神楽殿は、もとは栗材のくれ板葺きであったと伝え、江戸時代末期ごろの建立かとみられる。境内は全体に旧形が保たれている。 豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれる。祭神は豊受大神、日子番能邇々杵命、天児屋根命、天太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばらになったとはいえやはり大社の様相を留めている。 天照大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水による御饌(みけ)の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄略天皇の21年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波から豊受大神を御饌都神として伊勢の山田原に迎えたのが伊勢外宮のはじまりであるが、ここ豊受大神社はその元つ宮だと伝えている。 近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受大神宮鎮座初の地にして、雄略帝21年神託有て翌年勢州山田原に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」には、「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊々杵命 右天児屋根命、雄略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣 人王33代推古女帝21丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。神社明細帳には、雄略天皇の22年、天皇が神誨を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく当国舟岡山に鎮座したのに始まるとしている。 大江町誌 |