『止由気宮儀式帳』にある「比治真奈井」、『倭姫命世記』にある「与佐之小見比治之魚井原(与謝郡比冶山頂麻奈井原)」に比定される、候補地の一つ。 豊受大神宮(外宮)の起源で元宮の可能性がある。元伊勢の一つ。 社伝によれば、第10代崇神天皇の時代、比治山に降臨した豊受大神を祀ったのが始まりとされ、古老によると、丹波道主命の創祀とも伝える。 第21代雄略天皇22年に伊勢に奉遷された後も引き続きこの地に祀ったと伝えられ、五穀豊穣、養蚕守護神として篤く信仰される。 |
藤社神社 当社は、「止由気宮儀式帳」などの記録によると、崇神天皇の時代、比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ、古老によると、丹波道主命の創始とも伝えられています。雄略天皇22年に伊勢に奉遷された後も引き続きその地に祀ったと伝えられ、五穀豊穣養蚕守護神として篤く信仰されています。 内陣は、正徳4年に再建され、明治40年本殿を改築しましたが、昭和2年当地方を襲った丹後大震災により大半が破損しました。復興に際し、その由緒によって、昭和5年伊勢神宮の式年遷宮造営に関わる社殿の扉、柱等の古材を下賜いただくことになり、昭和11年9月神明造りの本殿並びに、回廊、水屋、弁天池の真名井祠、和奈佐祠を建造、現在に至っています。 祭神 保食神(豊受大神) 境内社 和奈佐夫婦祠 大山祇社 武大神社 天目一社 天満神社 平成11年3月 峰山町教育委員会 社頭掲示板 |
藤社神社 【藤社(ふじこそ)神社(五箇、鱒留、大光田、祭神 保食之神)】鱒留村は、寛永2年(1625)から、宮津藩主京極丹後守高広の領下となり、寛文6年(1666)高広の子高国流罪の後、天領(御料所)に加わったため、宝暦3年の『峯山明細記』および明治2年の『峯山旧記』その他、峯山藩記録に、その資料を残していないが、延喜式内社の比沼麻奈為神社、すなわち、伊勢外宮の故地として、長らく久次村の比沼真名井原豊受大神宮(古名)と論争をつづけて来た社である。 延享2年(1745)『鱒留村明細帳』では「一、社 式社八頭荒神、宮建 三尺社、藤社大明神 宮建 五尺社。外に小祠二社、八頭荒神宮守これなく候。八幡宮の宮守これなく候」とあり、当時「藤社」の神号であったことがわかる。延享2年は宝暦3年の八年前で、だいたい『峯山明細記』当時の姿であるとみてよい。 天保12年『丹哥府志』では、祭9月28日、藤社大明神は蚕の神であるといって、どこの村々でも、蚕を養うものは、みな、この神をまつらないものはない−と記している。 明治2年『御料所旧記』は「久美浜代官管下の天領地域内の神社、中郡十ヵ村十四社の中に……比治麻奈為神社、式内 藤社大明神、祭 9月28日、鱒留村。蔵王大権現、祭 9月28日、同大路分」と、はっきりと『延喜式』による比治麻奈為神社の名をうち出している。 しかし、その翌明治3年、中郡の天領のうち、新治、鱒留、谷内、明田、久住の五ヵ村の社掌を兼ねていた新治村九丹大明神の神主安達数馬から、久美浜県御役所に提出した『調書』には、次のように記している。 明治3年(『神社調』)藤社神社 祭神 不二相分一(あいわからず)、宮殿 五尺社、上家 二間半に二間、拝殿 四間に二間、……祭日 9月15日、社地 平地二五〇坪、横 一〇八間 〔摂社−本社と末社の中間の格式〕八柱明神 天忍穂根命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命、上屋 二間に一間半、祭日 9月15日、社地 山中にあり。 また、同氏による別書には、式外八柱明神の摂社として藤社大明神をあげ、祭日11月亥日、祭神、勧請年記は両社とも不詳としており、末社に吉野、乙姫、八柱の三明神と、八万宮(八幡か)を載せていて、式内社としてはとりあげていないことになる。 明治17年(『府・神社明細帳』)村社 藤神社、祭神 保食之神、社殿 二間二尺に二間半、籠屋 二間半に四間半、境内 二、〇七二坪、官有地第一種……社祠掌 行待政治 〔境内神社〕一、大山祇社、祭神 大山祇神、由緒不詳、建物四尺に三尺 一、武大神社、祭神 須佐之男命、由緒不詳、建物 五尺七寸に六尺三寸 一、天目神社、祭神 天目一箇神、由緒不詳、建物 四尺二寸四面 一、天満神社、祭神 道真朝臣命、由緒不詳、建物 二尺五寸四面 一、稲荷神社、祭神 受持神外四座(不詳)、由緒不詳、建物 二尺三寸に一間半 この処が士形の里であることは、『丹後旧事記』に記してある。『風土記』にいうところの伊去奈子山のふもとで、真奈井ノ神をまつり、社号の藤は泥、または比治から転じた語であって、五穀養蚕の神で、社殿は享保3年閏10月(1718)(または同4年正月)、再建の棟札があるが、その他は不詳である、と。 (頭注付記)明治39年3月7日許可、国有林反別 三町八反八畝歩、境内編入。明治40年11月14日許可、神殿再建、回廊新築、拝殿新築。明治42年4月12日、八柱神社を合併。 明治17年の『明細帳』に、はじめて藤社神社の「社」の一字を省いて「藤神社」としている。 昭和11年『五箇村郷土誌二』には、前記藤神社の由緒に添えて「雄略天皇22年秋7月、伊勢山田原に遷座ありし外宮の本地、すなわち、比沼麻奈為神社の本社なり」と書き加えている。 社格、大正元年村社に指定。社掌 金刀比羅神社、毛呂清春兼勤。 建物、神殿 二間半四面、回廊付、拝殿 四間四面、境内 二、〇七四坪、弁財天池(伊勢外宮の下御井の地形に似ている) 一、享保4年午正月再建の棟札あり。 一、明治40年11月、神殿再建、回廊、拝殿新築許可。 一、昭和11年8月、神殿、拝殿、改築。伊勢外宮の御用材の払下げを受けて造営(社殿の扉も同じく)。村式祭9月28日、氏神例祭 10月10日、蚕飼育の頃、子、午の日ごとに蚕祈祷を行なう。 神事 太刀振り、三番叟、神符 天女が鱒に乗って波に浮かび、藤の枝をよじ上る神姿に、桑の葉の上に繭を配した図柄である。 お猫さん 養蚕期に、独狗祠の小石を借り、「お猫さん」と称して家にまつって、ねずみの害を除く風習がある。なお『五箇村郷土誌』および『中郡誌稿』に社蔵棟札(霊廟および鳥居重創)二枚の写しをのせている。その一つ、 丹後州中郡五箇庄鱒留郷藤社大明神霊廟重創上梁文 神昔乗鱒留在此郊墟攀藤而結社永守我村盧夫神之垂跡不可執一辺随縁又赴感如月印清川霊廟久朽腐老幼共悲辛択材運斤斧棟宇此一新願常蒙擁護災生月悉消除嘉禾歳合穂郷閭楽有余 正徳4年甲午5月吉祥日 全徳寺見住 孝巖謹記 藤社大明神 現在の規模(昭和2年3月7日、震災被害なし) 〔神社名〕藤社神社、本殿 一〇尺四寸に六尺三寸、昭和11年9月21日改修瓦葺。拝殿 一三尺六寸に一六尺八寸、上屋 一九尺に一七尺 〔境内社〕一、大山祇社 瓦葺 四尺に五尺。一、武大神社 瓦葺 八尺四面。一、天目社 同六尺五寸四面。一、天満神社 五尺に六尺。一、社務所(現存しない)、境内 一三、九一九・五坪、山林 六、二二〇坪、宅地 一五四坪、畑地 一五〇坪〔社宝〕藤社神社真影 一巻その他 主な年中行事 公式祭、3月27日。例祭、10月10日、太刀振り 峰山郷土志 |