矢田神社
やたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】矢田神社 丹後国 丹波郡鎮座

   【現社名】矢田神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町矢田322
       北緯35度38分31秒、東経135度4分25秒
   【祭神】伊加賀色許命
   【例祭】10月 10日例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代は不詳
       明治6年2月10日村社列格

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「姫宮大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       

   【境内社】大川神社

比治山伝説(奈具神社参照)で養父である和奈佐翁の家を退去した天女、豊宇賀能売命を祀つたもので、「あまの原ふりさけ見ればかすみたち、家路まどいて行衛しらずも」の歌を御神体と仰いだと伝えている。
北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成2年(1990)から6年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成6年の発掘では青龍3年(235)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである


矢田神社

(峯山明細記)姫宮(二尺社) 若宮(相殿) 上屋一間半四面程 境内長さ三十間 横二十八間程但山共 神子河部村相模持 祭礼9月16日 橋木村縁城寺中西明院支配
(村誌)村社 宇谷山鎮座
 矢田神社 祭神 伊賀加色許命 祭日9月16日
由緒 社記録等存在せさる故確據ならされども里老の口碑を挙れは式内矢田神社にて往古神輿例祭のとき同村字深田と称する所に塚添へと云行宮旅所の跡なりと存在せり、境内東西七間南北九間 面積六十九坪
 按、丹波村多久神社も天酒大明神を祭り祭日も矢田神社の前日9月15日なり俚謡にも彼此一視して矢田や丹波の郷の天酒さんのおした通るもありのだやと云蓋し丹後古風土記天女の古伝中に天女善く酒を醸し一盃を飲めば万病悉く除くとあるに因みて俗に此の神名を唱へ来りしものなり即ち豊宇賀能当スを祭るなり

中郡誌槁



矢田神社

【矢田神社(式内社、矢田谷山、祭神 伊加賀色許(売)命)】『延喜式』丹波郡九座の一、矢田の神社である。
宝暦3年(『峯山明細記』)姫宮 二尺社、若宮 相殿、上屋 一間半四面程、境内 長三十間幅二十八間程、但し山共。神子河部村相模、祭礼 9月16日、橋木村縁城寺の塔頭西明院が別当として支配 当時は、姫宮、若宮が並んで一つの上屋の中にあったもので、23年前の享保15年3月28日、本殿営繕の棟札にも、「若宮大明神、姫宮大明神」と列記され、別当西明院とある。
文化7年(『丹後旧事記』)矢田神社、神子 橋本氏、祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命。
「神記」矢田とは、屋退(やた)という意味で、養父である和奈佐翁の家を退去された比治山の天女豊宇賀能売命をまつったもので、「あまの原ふりさけ見ればかすみたち、家路まどいて行衛しらずも」の歌を御神体と仰いだと伝えた。……九座一神、すなわち五穀成就の神豊宇気持、豊宇賀能売両社を氏神とすることは、谿羽道主命(丹波道主命)が、自分の娘をして、この神をまつらせたそのおかげで、四人の娘が垂仁天皇の后や次妃となったその神徳をあがめた。といっている。しかし、この屋退(やた)の説に対しては、異論が多く、また豊宇気持命と豊宇賀売命の両社を氏神としたというのは、姫宮、若宮を意昧するのであろうか。いささか了解しにくい点がある。
天保12年(『丹哥府志』)矢田神社 今姫宮大明神、風土記の天女八人のうちの一人…
明治2年(『峯山旧記』)祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命、別当 西明院、神子 相模、祭 9月16日 『旧記』は、姫宮、若宮の関係には全くふれていない。また、この宮が酒造りの神として里人から尊敬されたことは「矢田や丹波郷の天酒さまのお下通るもありがたや」の俚謡によってうかがわれる。ところが、同じ明治2年に丹波村の天酒大明神の神主今西伊予通清から、神祇官御役所にさL出した書類は次のように複雑である。
明治2年(『改号相殿窺書』) 
一、矢田神社 式内 祭神 武諸隅命
  右殿 若宮 祭神 伊賀迦色許売 建内宿禰命
  左殿 姫宮 祭神 下影日売命
一、秋葉社(秋葉大権現改号)、祭神 阿遅スキ高日子根命
一、新宮 祭神 大新河命
一、稲荷社 祭神倉 稲魂命
一、産霊社 祭神 天御中主尊 右五社
明治4年(『峯山藩神社明細帳』)
祭神 伊加賀色許命、勧請年記不詳、社一間半四方、神位不明、社地 三十間四方、祭日 9月16日
明治6年2月10日、村社列格。
明治12年(『明細取調御届』)
一、矢田神社 一間半に二間、境内三畝、境外 山林 二〇七畝
一、新川神社 一間半に二間、境内 二畝、境外 山林三反八畝
一、末社 妙見 一間半四面
新川神社につき、由緒正しき書類等明細に取り調べ差し出すよう御伝達があったが、いつ紛失したものか見当たらない。古老の話では、字新宮谷に寺があり、坊の谷という処があるし、仁王門のあった所だという大門には石がそのまま存在していた。
明治17年(『府・神社明細帳』)村社 矢田神社、祭神 伊加賀色許命、社殿 一間半に二間、境内 一、○〇六坪、官有地第一種、由緒 社記等存在しないから確かではないが、里の古老のいい伝えによると、式内矢田神社で、往古、祭の時に神輿は、同村字深田という所の塚添(つかぞえ)という行宮の旅所まで渡御されたもので、その跡は今も存在しているという。
〔境内神社〕大川神社、祭神 大川神、由緒不詳、建物 三尺五寸四面……社掌兼勤……中沢義治
〔頭注付記〕明治30年1月12日許可、産霊神社を合併。
明治28年(『古神社調査御届』)
社格村社、祭神 伊加賀色許命
〔矢田とよんだ事由〕崇神天皇39年秋7月7日、比治山頂の大沢で水浴していた八人の天女のことから述べ……矢田野まで来て、ようやく養家を退去しようという決心がついたからである。醍醐天皇の延長6年、勅命により諸国からやたい『風土記』を奏上した時、この屋退(やたい)の理由を詳しく申し上げたが、すでに元明天皇和銅6年5月の勅語で、畿内七道諸国、郡、郷の名は好字(このましい文字)を用いるよう命じられていたので「屋退」は不吉だというので「矢田」を用いたのだという……。また、神幸の行宮地の深田は、今耕地となって、塚添といい、当時祉領として八町四面を所有していたが、足利時代の末、一色五郎義清の部将の原主水が矢田村に築城し、村民をよくいたわったが、この社領を奪って軍兵を養った……。社殿 一間半に二間、境内末社、一社 大川神社……社掌 兼勤 中沢義治(注)
『縁城寺年代記』によると、崇神天皇39年には「天照皇太神大和国笠縫邑から当国吉佐宮へ御遷幸鎮座、四年後大和の伊豆加志宮へ神幸」とある(伊勢内宮)。
また、この39年に豊受大神も大和を出て、比治ノ里真名井原に現身をもって降下され、雄略天皇22年7月7日、勅使大佐々命によって伊勢の度会へ迎えられた(同外宮)。
矢田神社の祭神については、明治2年から、天酒大明神豊宇賀能売命を改めて武諸隅命とし、同4年、伊加賀色許命となっている。しかし、当時の『村誌』は伊賀加色許命として、加賀を賀加と書いている。これについて『古事記』の開化天皇の項をみると「鹿母伊鹿迦色許売命を娶って御真木入日子印恵命(崇神天皇)を生む……」とある。鹿母とは大和葛上郡の地名である。
この神の正しい名は伊賀迦色許売命で、ことに女神を現わすことからも色許でなく色許売がふさわしいように思われる。
〔現在〕本殿 一間五尺五寸に二間一尺五寸、(境内社)大川神社 三尺五寸四面、境内実測一、〇一〇・四坪、社掌 兼・今西義雄
【神宮、権現、薬師(無格社、同矢田)】
宝暦3年(『峯山明細記』)
三社 一所、上屋 一間に一間半、境内三十間に四十間程、祭礼 8月18日、長安寺支配
宝暦2年2月、神宮大権現再建の棟札
長安寺現住周厚、大施主当村荘屋大垣利助、組頭番場忠助……

峰山郷土志



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