名木神社
なぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】名木神社 丹後国 丹波郡鎮座

   【現社名】名木神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町内記134
       北緯35度37分53秒、東経135度5分4秒
   【祭神】豊宇賀乃当ス
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創祀の年代は不詳
       文化8年(1811)再建
       明治6年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天酒大明神」と称していた
   【社殿】本殿瓦葺
       

   【境内社】春日神社
   【別当】林香寺

社名は比治山伝説の天女が木によりかかり哭いたことに由来し、哭木神社と記されたが、哭の字を忌みて名木とした。


名木神社

(延喜式)丹波郡 名木神社
(丹哥府志)名木神社(延喜式)天酒大明神といふ風土記に所謂天女八人の一なり祭9月16日
(峯山明細記)内記村
一社二ケ所但神主無御座候何茂村支配に御座候内一社(小祠)天酒大明神上屋一間半に二間は境内二十五門に二十間但山地右祭礼9月15日河部村神子相模相雇神事相勤申候但社鎰林香寺へ預り置申候
(村誌)名木神社社地東西三十五間南北三十間面積九百四坪本村より亥の方にあり祭神は豊宇賀乃(口編に羊)命祭日10月15日社地中雑老木少分有之 按、丹波の多久、矢田、撥枳の諸社神と同一祭神なり
(同上)須賀神社、天仁木神社

中郡誌槁



名木神社

【名木神社(式内社、旧内記、祭神 豊宇賀乃メ命)】「延喜式』による丹波郡九座の一つで、波弥神社と同じく、天酒大明神と称し、『丹後風土記』中の比治山の天女をまつった。「名木」の社号の起原は、比治の里、荒汐村を出た天女は「丹波の里、哭木の村に至り、槻木に拠りて哭けり。故、哭木村という…」とあるところからでたもので、哭木の文字をきらって、名木としたといわれ、村の名は内記の二字を当てはめたということである。
これについて、峰高郷研編『古代丹後文化圏』では「槻木は梛の木で、梛は各地でも神木となっている有名な木だから(和ぐ−なぐ−は凪ぐに通じ平和を表現する)、平和を祈って、名木としたのであろう」という意味の解説をこころみている。天女は哭木村を去って、竹野郡の舟木ノ里の奈具ノ村に至って、ようやく心が和いで、この村にとどまったとあるから、これも一つの見方であろう。なお、天女の泣いていた場所は、内記の字西尾(または西野とも)という竹野川の東岸で、梛の神木も見当たらないし、明治2年の記録にある槻の木も今はなく、ただ白いつつじの株が残っている。かつて、この天女天酒大明神である豊宇賀能売命をまつる名木、波弥、多久、矢田、撥枳の五社の神輿が、同じ日に、この場所に集まって祭礼を行なったといい伝えられている。
名木神社の資料としては、文化7年『丹後旧事記』に「哭木村、祭神天酒大明神、豊宇賀能売命」として、例の『丹後風土記』の伝説をあげ、今では「なき木」の言葉をきらって、内記村などと記していると、のせている。また『竹野郡誌』に玄旨法印細川幽斎(藤孝)の「天正11年順国紀中哭木神社にて」詠んだという和歌を載せている。「蝉の羽の薄き衣にほしわびて、森の梢のつゆになくなり」長岡藤高(藤孝)。
宝暦3年(『峯山明細記』)小祠 天酒大明神、上屋 一間半に二間程、境内 二十五間に二十間、但し山地。右祭礼 9月15日、河辺村神子相模を雇って神事を勤め、社の鎰(かぎ)は林香寺へ預かって置いた。
林香寺はこの社の別当であったろう。
天保12年(『丹哥府志』)祭神 天酒大明神…祭 9月16日
明治2年『峯山旧記』は『明細記』、『丹後旧事記』の説をとり、祭りは『丹哥府志』と同日。外に天王と荒神の二社をのせている。
明治6年2月10日、村社に列格。
明治13年(『神社明細帳』)祭神 豊宇賀能乃メ命、社殿 二間に二間半、境内 九〇四坪、官有地第一種、社掌…大宮売神社…嶋谷民付…
一、境内社、春日神社、祭神 天児屋根命、菅原道真、軻遇槌命。由緒不詳、建物 三尺五寸四面…
なお、由緒の中に、『丹後風土記』の天女伝説以外に、荒山村字有田谷(ありただに)というところに小さな池があって、天酒大神が天降られた池であるといい、この女神を丹波郷の者がつれてかえり、つくった酒を、西尾(西野とも)にもって来て売ったので、里のものは天酒の媼(おうな)と呼んだ…との古老のいい伝えをあげているが、『中郡誌稿』は、これを否定している。
また、境内社春日神社の記録は、他にはみえない。
〔現在〕本殿 三尺二寸に五尺五寸五分、上屋 一二尺八寸に一二間二尺四寸、社掌 多久神社、今西義雄兼勤
『神社取調』名木神社の項に「多久都玉命三世天仁木(てにき)命また天伎命、天爾伎命ともいう」とあるが、これは名木神社の祭神ではなく、天仁木神社は別に存在していた。
【天仁木神社(無格社、内記、祭神天仁木命)】『峯山旧記』にいう「天王」がこの神社の前身のようであるが、とは、何天王のことであろうか。
明治17年(『府・神社明細帳』)
天仁木命、由緒不詳、社殿 四尺に四尺一寸、境内 三三坪、民有地第一種
昭和28年廃社、同年2月10日、法人解散、2月14日、清算結了登記、建物は名木神社神庫として同地に存置。
【須賀神社無格社、内紀、祭神 素盞鳴命)】『峯山旧記』の「荒神」とはこの社であろうか。荒神を明治初年に須賀神社と改称した例は多い。
明治17年(『府・神社明細帳』)由緒不詳、社殿 四尺に四尺一寸、境内 一五坪、民有地第一種…
昭和28年廃社(以下天仁木神社に同じ)。
【錦野(『峯山古事紀』)】に「天酒川の東、吉沢へ越える所なり。道倫様御遊跡なり」とある。西ヶ尾、または西野と呼ぶ地がそれである、
白つつじ この内記の小字西野の名木神社御旅所に白つつじが一株ある。昔、多久、矢田、名木、波弥、撥枳神社の御輿は、日を定めてこの御旅所に集まって祭礼を行なったという。
錦野玉支(峯山三十勝の内)宮田遯叟(則誠)
先公嘗所息 雑葉玉支開 先公かつていこいしところ 葉にまじって玉支ひらく。
縦許芻蕘者 更無芟取来 たとえ芻蕘の者を許すも さらに芟り取り来ることなけん。
〔大意〕錦野はかつて高之侯(道倫)が御遊されたところで、葉まじりに玉支(つつじのことか)が咲いている。しかし、この処は、比治の天女の一人天酒の女神(豊宇賀能売命)が槻の木の下で哭いていられたという故地で、木の枝を折りとっても神のたたりがあるといい伝えられているから、たとえ草刈りや木こりの者に立入りを許可しても、けっして、つつじの花を刈り取って来るものはない。

峰山郷土志



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