稲代神社
いなしろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】稲代神社 丹後国丹波郡鎮座

   【現社名】稲代神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町安83
       北緯35度37分7秒、東経135度3分10秒
   【祭神】保食神 素盞嗚神 (合祀)倉稻魂神
   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】
   【由緒】垂仁天皇の頃、邁主命の孫稻別吉佐の吉原にあり此神を祭る
       天正年中(1573−92)祗園牛頭天皇を合せ祭る
       元禄12年(1699)稻代神社の再建
       享保15年(1730)5月3日造営
       文化2年8月12日建立
       昭和2年3月7日丹後震災により全壊

   【関係氏族】
   【鎮座地】元の社地は、約330m西南にあたる稻代山
        元祿12年(1699)元祗園から現在の小字森替に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「稻荷大明神」「祗園」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神輿庫・手水舍

   【境内社】

現在は「稲代神社・吉原神社」と称している。 吉原神社は天正年中(1573−92)長岡玄蕃頭興元の臣正源寺大炊亮、祗園牛頭天皇を合せ祭り。祗園と称した。祗園牛頭天王を明治2年に吉原神社と改称。
元の社地は、今の場所から約330m西南にあたる稻代山であつたから、その土地が元宮と呼ばれている。
「府神社明細帳」には、氏子たちが道路が狭くて參詣に不便なので、稻代谷にあつたのを、協議の上、遷社と議決し、文化4年(1807)3月13日に今の地点に移したという。


稲代神社

保食神 豊受皇大神 稲荷大明神を御祀りしています。延長5年(927)延喜式宮帳に丹波郡9座の一つとして記載され格式の高い式内社で吉原一郷の総社であります。
社はこの地より西三町の稲代山にありました。ここを元宮と呼び、谷を稲代谷川を稲代川といいます。参拝の道が険難の為元禄12年この地に奉遷されました。

社頭掲示板



稲代神社

(峰山古事記)祇園社は元木津之庄に有りしを勧請すと言伝ふ今の社より西山之方に元祇園と云処有始に此処へ移し後に稲代社へ合祭せるに今は祇園社と唱る也
(峰山明細記)一祇園社  三尺社  禰宜 安田出雲
       稲荷社  三尺社  同  安田伊賀
右二社之上屋三間ニ三間半、舞殿二間ニ四間半 宮平地二十間ニ十五間程 境内山林間数難相知候 祇園御祭礼6月14日より15日迄 稲荷御祭礼9月10日 右平日其御初穂出雲伊賀方へ納申候 右境内に有之小社三ケ所 狐婦社一屋一間四方祭礼2月11日卯日修覆掃除等出雲伊賀方より仕候 恵比須社修覆同断 天日社修覆等当村与左衛門方より仕候 神楽相頼候節ハ内膳相勤尤神楽料内膳方へ相納候 右三社共御初穂類平日共出雲伊賀へ納候…略…
(古神社調査届)京都府丹後国中郡吉原村大字安小字森替
一、社格 村社 稲代神社
     相殿 吉原神社
一、祭神 主神 保食命
     相殿 進雄命
事由(前略)後世元和五年領主京極家赴任以来本神社を敬礼尊崇ありて享保15年京極備後守の時本神社修繕等の棟札等社殿内に蔵む抑本神社は維新更政の際迄は氏子は安村を始め峰山杉谷村小西村西山村等に亘りしを安村の外皆都合を申立氏子替をなせり(付箋小西西山の文字を省く按ずるに小西西山なほ信徒にして其総代も此届に連署の付箋あり)是より前文化4年3月13日当時の氏子協議の上今日の社地の奥地に稲代谷と云地名ありこれに御鎮座ありしを参詣の不便を唱へて現今の社地字森替に遷座の竣功を奏せしとぞ(付箋に曰本社は元小西西山字稲代に鎮座せり然るに文化4年3月13日都合に依り総方協議之上本社は現今字森替なる小西西山両村落地内に鎮座せり(下略)、因に云相殿吉原神社はの事由を尋ぬれば旧祇園牛頭天皇と唱へたりしを御一新の際御布告により本社号に改む然而本相殿の事由を述ぶれば天正7年当庄吉原郷士清源寺大炊助なる者ありて武運の長久を祈りて同国竹野郡木津庄下和田村鎮座の神は武道の大神なるを知り終に御分霊を奉迎せし所なりと云(余は略之)
(実地聞書)峯山の京極侯は赤坂の篠箸の氏子にして家老以下は安の氏子なり其故はもと陣屋の溝を以て氏子の境界となしたればなりと(按、是又峯山は隣接諸村の地を割き新に出来たる町なるを以てならん峯山誌参照すべし)現今社地の北に渓谷あり之を稲代谷と称し其奥山字大べらを稲代の御霊代の山とし其谷口街道に沿ひて字馬場ケ岡といふあり神祭の地なりと又同所に小山あり稲代山といひ同所を元宮とも唱ふ以前の社地なり又同所より西に当りて字やつかといふ所あり神子屋敷神主屋敷といひ神主安田家の旧跡なりと云又以前京極家家老毎年参拝の格を有したるは領内にて当社と咋岡とみなりとぞ…略…

中郡誌稿



稲代神社

【稲代神社、吉原神社(式内社、吉原、安、祭神 保食神、素盞嗚神、倉稲魂神)】例祭7月14日、10月10日。この三神は、稲代、祇園、狐婦(妙婦)三社の祭神で、現在は同じ社殿の中にまつられている。稲代神社は、延長5年(927)の『延喜式官帳』にのせられた丹波郡九座の一つで、大和国稲代坐神社というのがこれで、吉原ノ庄一郷、すなわち、奥吉原(小西、西山)、吉原(安、峯山、杉谷)の総社で、この神を産土神とし、この神の氏子として結ばれてきた。当時、峯山の市街もなければ、峯山という名もなかったことはいうまでもない。前にも述べたように、丹波郡の式内社は、九座一神といって、比治山伝説の天女、豊宇賀能売命をまつっており、竹野郡に属していたという橋木の撥枳の神社、口大野の大野神社(宇気持神)、三重の三重神社も同神で、この祭神は別の名を稲知大明神、稲倉持命、保食神、稲仕老、稲荷大明神、豊宇気持命、大気津比女命など書かれているが、『峯山旧記』、『神社取調』、『丹哥府志』、『丹後旧事記』などは、一様に稲をつかさどるところから生まれた名称で、豊受皇太神と同体であると説明している。
また、垂仁天皇の頃、四道将軍の一人、山陰道の将軍である丹波道主命の孫の稲別命は、吉佐の吉原にいたとあるから、この命をおまつりしたのではないかと『丹哥府志』や『峯山旧記』はいっている。しかし、丹波道主命が一郡ことごとく豊宇賀能売命をまつるようと命じたともいうから、稲別命と同神ではなく、それ以前からまつられていたのではないだろうか。二千年前のこうした出来事は、はるかに遠い神話の世界のことであろう。吉原の庄一郷のものが、五穀の神をまつって、稲のみのりを願った気持に変わりないし、丹波郡はおろか、農業を主とする地方は、皆同じ願いであったにちがいない。稲代神社の元の社地は、今の場所から約三町西南にあたる稲代山で、その土地を元宮と呼び、その谷を稲代谷、小川を稲代川といっている。稲代山は、明治の中頃、その先端をくずして、稲代小学校の敷地としたが、近くに馬場ヶ岡、のぼり杭などの地名が残っている。
祇園牛頭天王の勧請 祇園社は、天正年中に竹野郡木津ノ庄の上野村、下和田の売布神社から、牛頭天王の分霊を勧請したもので、木津ノ庄では、悪い病が流行することを防ぐため、正安2年(1300)、京都の祇園牛頭天王を分宮した素盞嗚命である。売布神社の由緒書に天正4年(1576)7月、丹波郡吉原ノ庄の稲代神社に、分霊を請われてお遷ししたことがみえている。
また、天正年中(一説、天正7年)、長岡玄藷興元の家臣、正源寺大炊介が、下和田から勧請したという説も多いが、細川興元が吉原山城に入ったのは、丹後の一色党が滅亡した天正10年10月24日というから、それ以前に正源寺が祇園を勧請するはずはなかろう。現在保管されている棟札の中に天正4年7月28日、安村稲代稲荷大明神再興、安村祇園牛頭天王再興の二枚があり、世話方代表は、安村庄屋田中与右衛門、世話人は安村・小西・西山村・杉谷村、町中…大工本嶺山毛呂六左衛門…遷宮の祢宜は喜輔、巫女は吉田惣之一−書かれていて、吉原ノ庄の村々の氏子が勧請したことがわかる。しかし、この棟札の様式や、字句から考えて、天正初年のものとは思えないが、参考にするに足ると、『峰山町誌稿』はいっている。天正4年にはまだ「嶺山」などの町名はなかったはずである。
この点について『峯山旧記』は、稲代神社の項で、祇園牛頭天王は、天正4年7月、木津ノ庄下和国村から分霊を勧請し、別当慶善寺(今の渓禅寺)が御法楽(仏式による祭り)を勤め、その後十年を経て、嶺山城主細川玄蕃頭興元の家臣正源寺大炊介が、心願により祇園精舎(社殿)を建ててまつった…と述べている。天正14年であれば、時代としては不思議がない。しかし、同じ『峯山旧記』の渓禅寺の項になると、天正14年6月、正源寺大炊介が、木津ノ庄から勧請するとき、別当として慶善寺を建立し、薬師如来を安置し、当時は真言宗であった…といっている。こうなると、天正4年の棟札以外に、また、迷わざるをえない。やはり、天正4年に民間で勧請し、興元が領主となって4年後の、天正14年に正源寺大炊介が社殿を建てて、安村の真言宗慶善寺に、別当を命じて支配を依頼したということではないであろうか。
勧請した祇園牛頭天王は、稲代山の稲代神社の境内にまつられたに相違ない。
祇園稲荷の起源 京極氏が細川氏に代わって峯山藩主となってからも、代々、祇園を尊敬され、元禄11年(1698)5月、三代高明は病気全快の祈願を行ない、翌12年、稲代神社御再建の際、祇園天王の社もこの所に集めて、一棟の上屋のうちに二社をならべてまつった(相殿)。これによって、現在の社より西の方に元祇園という所がある。享保15年(1730)5月、五代高長によって、上屋が修理され、その棟札は今も神社内に保存されている。
祭りは6月14日で、神輿は峰山町の馬場に渡御され、そこに15日までとどまり、15日に馬場を出て出町、新町、下、中、上町を練り、田町からかえられた。
「明治3年、御門内御旅通行御免、表門より入り、御舘前神興徐行、北町より裏門を出で、赤坂口より札町へ戻る」(注、赤坂口は赤坂峠の旧道)。此の祭り、又、殿様の御代参がある…(『峯山旧記』)
『峯山旧記』によると、元禄十二年に稲代神社が再建され、祇園社も同じ上屋の中に並べてまつったもので、元祇園がその旧地であるというから、稲代、祇園とも独立していた両社を、現在の字森替に移転し、一棟の上屋の中に相殿としておさまったとみてよい。しかし、この元禄12年の件については、他に資料もないし、また棟札もない。
次に、享保15年5月3日の棟札は「吉原庄安村祇園稲代両社上屋修覆」とあり、領主は京極備後守源高長、家老辻八兵衛、渡辺太郎左衛門、木村伝左衛門、高木彦左衛門、普請奉行は岡沢壱兵衛、樋口唯右衛門、渡利庄次兵衛。下役湯本次兵衛、祢宜安田与次兵衛、巫女照日、大工棟梁は池内与兵衛と中村治左衛門、小工は藤次郎…等が記載されており、藩の直営であったことがわかるし、稲代は稲荷と名を変え、すでに祇園の方が主体となって、祇園稲荷であり、神輿の渡御も6月14日で、全く祇園祭りの行事なのであった。
峰山高等学校編『古代丹後文化圏』にもあるように、元禄頃は峯山市街地が小西川筋まで拡がり、安村も森替付近の山腹から、次第に東下へと伸びていったので、従来の元宮(元祇園ともいう)の位置では、西にかたよって不便であるといった理由から、現在の場所へ引きよせられたものであろう。峯山市街地の民は、稲代の氏子を忘れて、祇園の氏子と称していた。
また、『杉谷村誌』は「当村氏神は、安村の稲代神社。祭神豊宇気持神、祭日9月10日。合神祇園牛頭天王、同6月15日。産土神妙婦神社、同2月、11月初卯の日……」として祇園、妙婦(または狐婦とも)を、豊宇気持神に合わせて稲代神社といい、その氏子であるといっている。しかし、その祭典については、いつの頃からか安村は祇園神社の祭日を祭典日とし、6月7日に峰山の馬場の御旅所に神輿をかつぎ出し、14日まですえおき、14日夕方安村へかえり、翌15日御旅があり、よって6月15日を祭典日とし、親類縁者を招いてもてなし、当村は御供えをして休業し、同神社へ参詣するならわしである。また、稲代神社は9月10日……妙婦神社は当村と安、小西、西山、当日休業、御供えをして参詣……。

峰山郷土志



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