波彌神社
はみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】波彌神社 丹後国 丹波郡鎮座

   【現社名】波彌神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町荒山554-1
       北緯35度37分13秒  東経135度5分16秒
   【祭神】建埴安命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立の経緯不詳
       天保15年(1844)8月11日社殿と上屋改築
       明治6年村社
       昭和2年3月7日奥丹後震災で全壊
       昭和4年再建

   【関係氏族】波美臣
   【鎮座地】昭和2年の震災前の社地は、現在の一段上の愛宕山上にあつた

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天酒大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       社務所

   【境内社】

比治山伝説の八人の天女の一人、豊宇賀能売命を祀つてきたものと思はれる。
もとは豊受大神(豊宇加能売・保食神.大宜津比売.天酒神.酒戸古神)が祭神となつていたと思われる。


波彌神社

(延喜式)波弥神社
(丹哥府志)波弥神社(延喜式)今天酒大明神といふ風土記に所謂天女八人の一なり祭9月朔日
付録(愛宕大権現、八幡宮、三十八社明神)
(丹後旧事記)波弥ナミイヤ神社 神子橋本氏 荒汐里 祭神天酒大明神 豊宇賀能・命
神記に曰波弥とは咋ハム神社と云心なり真名爲の神伝に…(風土記の伝説、略之)国康曰波弥神社の事与謝郡宮津艮の方にハミと云村あり祭神稲の神豊宇賀迺・命なりと又は宇賀神ウガシンとも云なり是を村名と社の名と一にしてハムノ義を取れり今は白山妙理大権現なりといへり一村日蓮宗にして神事も寺僧題目にて御輿渡ありといへりされども大野のやうに麁末にするよりは却て神慮にもかなへるなるべし
(峰山明細記)荒山村
一社七ケ所(但禰宜当村半太夫支配、神子峰山下町)十寸見持 内一社三尺社
天酒大明神、上屋二間四面境内六間四方但山間数難相知候 右祭礼9月朔日峰山下町神子十寸見雇神事相勤申候、
一社愛宕上屋二間四面境内八間四方山間数難相知候鐘撞堂一間四面鐘一尺九寸
一社小祠卅八社上屋二間四面境内長百間横四間山間数難相知候
一社小祠八幡宮上屋一間半程境内南北四間東西五間程山間数相難知候
一社小祠八大荒神上屋一間程境内十二間廿四間程但山共
一社小祠さおり荒神上屋一不意だ程境内三間四方但山少御座候
一社小祠三宝荒神境内五間四方程但し山共
(村誌)波弥神社 村社 社地東西七十二間南北二十六間面積九百十二坪本村寅の方にあり祭神は豊宇賀能・命祭日9月1日社地中松老樹少分有之
愛宕神社、速狭騰神社、三十八社、八重垣神社、天満宮、八幡神社等略之
(実地調査)本村の北方小字四反田の東小字有田に近き所にオクダリ又ミタラシといひ天酒明神の降られし所と伝ふ口碑に風土記と同様女神?体にて降りしを丹波郷の者伴ひ帰り其善く酒を造るを聞き酒を造りて内記村なる字西尾にて之を売り時人天酒の姥といひたりなどいひそれ故此地後世天酒神の旅所となるといふ皆古風土記伝の訛り伝れるなり

中郡誌槁



波彌神社

【波弥神社(式内社、新山、荒山井行内、祭神 建埴安命)】
宝暦3年(『峯山明細記』)
天酒大明神(七社の内)祢宜は当村の半太夫支配。神子は峯山の下町の十寸見(とすみか)の受持ちである。三尺社、上屋二間四面、境内 六間四面、但し山の間数は知りがたく、祭礼は9月1日で、神子十寸見を雇って神事を勤めさせた。
文化7年(『丹後旧事紀』)
波弥神社、荒汐の里(今の荒山村なり)、祭神 天酒大明神 豊宇賀能メ命……神記にいうには、波弥とは咋神社という意味である。真奈為の神伝に、養父漣母(和奈佐翁御媼)のことを思うと、荒汐の中にいる心持がするといったので、それをもって村の名としたのである。今この村を荒山というが、どのようなわけがあって、村の名が変わったのか知らない。こうした例は多くあることである。
また『中郡誌稿』に引例する『丹後旧事記』によると、「波弥神社(ナミイヤ)神子橋本氏、荒汐里、祭神(同上、省略する)、神記に曰く、波弥とは咋神社(ハム)の意で……(『風上記』の伝説、真名為の神伝省略する)…小松国康は波弥神社のこと、与佐郡宮津艮ノ方(東北)にハミという村があり、祭神稲の神豊宇賀迺メ命なりと、または宇賀神ともいうなり。これを村の名と社の名と一にして、ハムの義を取れり。今は白山妙理大権現なりといへり……」とあって、ハミ村とハミ神社の名称の起原を説明しながら、「ナミイヤ」と振仮名をしている。当時の祭神は、白山妙理大権現で神仏混淆時代の状態を物語っている。また『丹後旧事記』も、写本によって記事が幾分異なっているし、与佐郡にも波見村があるから、なお研究を要する。
この神は『丹後風土記』の伝説による八人の天女のうちの一人で、天酒大明神とは九座一神の豊宇賀能売命であり『丹哥府志』も同じ説である。また、『神社取調』は、諸説をあつめて、阿当護山破无神埴安姫の埴は波弥に通じているといい、『古事記』の中にある波多八代宿祢は、波美臣の祖で、建内宿禰の子孫が、その祖先をまつったのであろうし、また、与謝郡、加佐郡の彼見村も、この波美臣の子孫であろうといっている。この「ハミという村」は与謝郡波見村をさしており、荒汐里(荒山村)を波弥村と呼んだ例はないようである。
波美について、峰高郷研編『古代丹後文化圏』は、波美は蝮であると『和名抄』にあるから、大蛇をいったのであろう。荒山も荒らぶる神の山から名付けたのであろう。この谷の奥に、ミセン(弥山)とて霊威の強い神社があるという−と述べている。なお、荒山村の属する郡名については、中郡とも、丹波郡とも、竹野郡ともあり、祭日も9月1日、あるいは10月10日ともある。
竹野郡となっているのは、荒山ばかりではない。峰山町や、稲代神社を竹野郡としている資料は他にもあり、丹後五郡とよくとりちがえられている。
明治2年、『峯山旧記』も、『丹後旧事記』と同じ説で、ことに丹波郡の式内社九座は豊宇賀能売命一神をまつり、宮守は半太夫、神子は十寸見をあげている。祭は9月1日。半太夫は一色落城の頃の残党であったという。
明治17年『府・神社明細帳』は、祭神建埴安命としているが、由緒には『丹後旧事記』を例にあげて、それに、明治6年2月10日、村社になったとつけ加えている。
社殿 二間四面、境内坪数……九一二坪、官有地第一種、(境内社)愛宕神社、祭神 火産霊命、埴山姫命、稚産霊命、由緒不詳、建物 二間四面…兼勤…周枳…嶋谷民鮒
社殿については、宝暦の『峯山明細記』に書き上げられた後、天保15年8月11日(1844)、社殿と上屋二間四面を改築している。当時の棟札に「奉二再建一当邑産土天酒大明神宮社一宇祭主今西石見守鍵取中淵助太夫……」とある。明治17年現在の建物はおそらくこれであったろう。
昭和2年3月7日、震災によって、本殿三尺四面、上屋二間四面とも全壊し、この材料を中野の八幡神社の再建に当て、昭和3年8月、山城国愛宕郡山崎離宮八幡宮(乙訓八幡)の旧社殿を購入して、そのまま移築したので、郷土の社風と全く異なった構造で復興した。
昭和24年12月24日、国有地一・○○一無償譲渡。
現在、本殿一一尺四面、上屋一五・九六坪、社務所一九尺二寸に二六尺、境内地一〇〇一・一三坪、山九畝一五歩、宅地八五坪、原五畝七歩(昭和30年)。
〔社地〕震災前の社地は、現在の一段上である。現在の社は、南面しているが、境内にある寛延2年3月建立の鳥居は西向きで、そこに森をはさんで旧参道が残っているから、当時は西面して村落に向かって建てられていたのかも知れない(峰高郷研編『古代丹後文化圏』)。
この鳥居側の雑木の中に小祠がある。金刀比羅様であると里人はいう。
〔神職〕祢宜半太夫(宝暦頃)、兼勤・嶋谷民付(周枳、大宮売神社、明治17年頃)、同・今西義雄(丹波、多久神祉、現在)。

峰山郷土志



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