久次咋石嶽の頂上(一説に麓)にあったものだといわれている。咋石嶽は現在久次岳と呼ばれているが、真名井嶽ともいい、宇気持神(保食神)の天降地で山頂に2間四方の岩を神として祀っていたと言われている。 久次の咋石嶽の山中にあったと傳へられる。応仁期に吉原(現在の峯山)城主一色義遠の家臣飯田越前が、久次の咋石嶽から勸請して、吉原城鎭護の神として大手口の馬場前に祭り、一色氏についで丹後を領有した細川氏も産土神として祭つた。京極氏の入國により社と付近の家が、元和8年(1622)10月赤坂村に移されたが、領主、藩士の氏神として信奉されたと記されてゐる。「式内社調査報告」 |
神所段 【神所段(じんじょだん・久次)】苗代部落・近く神所段という所があり、その付近に「神主(かじ)やしき」、「お燈明田(とうみょうだ)」の地名が残っている。『大日本地名辞書』によると、赤坂の咋岡神社(祭神豊受大神)は、古代は比治山のふもとである神所段というところの山にあったが、天正年中に峰山の山祇山(やまずみやま)に移し、元和年中、今の赤坂村に移し、京極氏の氏神と崇め−とある。 また、古老の語るところでは、神所段は真名井大明神の故地で、雄略天皇は22年の7月7日(479)勅使大佐々に命じて、豊受大神の神霊をこの地から伊勢の度会にお迎えして(9月に伊勢着)外宮としてまつられたが、その跡に分霊をとどめておかれたのを、後、咋岡神社跡(久次部落の西北裏山の中腹)の上に移し(一説、大宮屋敷)、さらに、現在の社地に移したという。 咋岡と真名井の関係は全く複雑であるが、祭神が豊受大神(一名豊宇賀能売命)であるこは変わらない。 峰山郷土志 |
咋岡神社 【咋岡(くいおか)神社(式内社、赤坂、祭神 保食神)】『延喜式』丹波郡九座の一、咋岡神社である。 宝暦3年(『峯山明細記』) 篠箸大明神 一尺八寸社、上屋二間に三間、境内 八間幅七間、山左右にあり。祭礼毎年9月9日、峰山、田町の神子内膳を雇って神事を勤めるが、禰宜はなく、村支配。 (追加)宝暦6年9月、藩から今西大炊(後の今城)に祠官を仰せつけられ、同10年8月、今西河内相継…(『峯山明細記』参照)。 また、咋岡神社が峯山藩主はじめ、北谷町の家中(藩士町)の氏神となったことは、初代高通の項で述べたし、御山蔵王権現の祠官今西越後が篠箸大明神の祠官を兼ねたことも、安村稲代神社の項で説明した。 文化7年(『丹後旧事紀』) 吾歌佐歌村、祭神 篠箸大明神、豊宇賀能売命 咋岡神社は、むかし久次村の咋石嶽にまつっていた豊宇気持命であったが、一色の武臣飯田越前が神領や神殿の破却するのを惜んで、峯山に遷し、その後赤坂村にまつった。宇気持ノ神の化身が豊宇賀能メ命である。一説に、この遷宮は天正年中で、飯田越前守は一色義道の武臣である。 といっている。神主は今城越後または日向で、神子は不明であった。 (注)『丹後旧事記』の別本によると、久次村を「比治の真奈為原」に、破却を惜みて…の次に「祭日を替えて、同体の神なりと赤阪村に祭る…」とあり、どちらかを誰かが添作したものと思われる。 天保12年『丹哥府志』は、「久次村は咋(くい)がなまって久次(くじ)となり、今久次(ひさつぎ)と読む」と村名を解説し、咋岡神社は、「この久次村の久次ヶ嶽にあったが、応仁の頃(1466〜67)一色義直の臣、飯田越前が赤阪村にうつしてまつり、そのわけはしらない。今は篠箸大明神といい、峯山家中の産砂神で、祭は9月9日である」として、天正年間(1573〜83)以前に久次から直接赤阪に移したように書いている。 天正10年、吉原城主一色五郎義清の頃、赤坂砦を守っていたのは飯田越前であるが、約百年前の応仁年間といえば、おそらく飯田越前の父祖にあたる。 慶応4年(『社寺奉行書上』)篠箸大明神二坐、保食命、草野姫命(御霊は二柱とも実幣)、『延喜式神名帳』にのっている咋岡神社はこれである。 「社記」咋石嶽の頂にあって、年数を経たので、神殿がたいへん荒れていたのを、天正年間、一色義直の家臣飯田越前が神徳を尊敬し、吉原ノ荘山祇山の艮(東北)の林に移し、神舎を建ててまつっていたが、その後峯山県(慶応4年4月から11月まで)の主が、陣営をはじめて造営した時、さしつかえることがあって、今の地へうつしたのである。 (注)峯山県の主とは、初代高通の元和8年(1622)造営をいう。また天正頃は一色義直でなく義道であろう。 明治2年(『峯山旧記』)祭祖 篠箸大明神、豊宇賀能売命。応仁年間、吉原城主一色四郎義遠(後、四郎義清と改める)の家臣飯田越前が、咋石嶽から勧請して、吉原城鎮護の神として、一色、細川、代々産土神にまつったが、京極家が入国して、元和8年10月、社と付近にあった民家を赤阪村に移して、御館と家中屋敷を経営し、この時、殿様と北谷町の藩士の氏神としたという。 神主は今城日向(もと今西姓)、神子は妻内膳、祭 9月9日、境内社 若宮荒神および石亀明神。 いずれにしても、一色義直(応仁)、義道(天正)は、丹後一色党の宗家であって、吉原山城との直接関係はない。『峯山旧記』は、応仁説に従って、一色義遠(四郎義清)をとりあげて、時代を合わせたものであろう。 また、『丹波、丹後式内神社取調書』から「咋岡」の由来をしらべてみると、引例の中に、久次嶽の頂に二間四面の平な大岩があり、その岩の面に人の死んだ形があるのを、宇気持神の死んだお姿であるとして、この霊石を御神体におまつりしたもので、奇霊石岡(くいしおか)神社の意であるといっている)。 明治6年2月10日、村社列格。 明治12年(『神社御届』) 中御宮 一尺八寸社、御家城(上屋)三間に二間、境内 三畝一二歩、境外 一反五畝一八歩 〔境内社〕若宮社 三尺四面、明治5年鼻の森字若宮から今の地に移す。石亀社 一間四面 明治17年(『府・神社明細帳』)祭神 保食大神、社殿二間に二間六尺四寸八分、境内 一、〇四六坪、官有地第一種 〔境内神社〕佐田神社 六尺四寸四面、祭神 猿田彦命、由緒不詳。若住(わかずみ)神社 三尺四面、祭神 天熊人神、由緒不詳。社掌兼勤麻奈為神社、中沢義治 この『明細帳』によると、咋岡神社は奇井嵩(くしいだけ)の麓の神所段(苗代近く)にあったといっている。また、若住神社の前身が若宮荒神であろうか。 (頭注付記)拝殿(瓦葺)二間に二間六尺四寸、大正6年2月26日以前から存在したことを届出。 大正4年11月12日、神饌幣帛料供進指定。 昭和2年3月7日、震災により一部倒壊。 峰山郷土志 |