大宮売神社
おおみおやめじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】大宮売神社2座(名神大) 丹後国 丹波郡鎮座

   【現社名】大宮売神社
   【住所】京都府京丹後市大宮町周枳1020
       北緯35度35分28秒  東経135度6分6秒
   【祭神】大宮売神・若宮売神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】崇神天皇7年詔勅により大宮売神を祀る
       崇神天皇10年丹波道主命若宮売神(豊受神)を祀る
       大同元年(806)神封七戸
       貞観元年(859)正月27日從五位下
       正応元年(1288)『丹後国田数帳』に神領三十町五反十歩
       徳治2年(1307)在銘の春日型石燈籠(重文)
       元禄8年(1695)造営
       明治6年5月22日村社
       明治40年10月3日神饌幣帛料供進社指定
       大正13年4月5日府社
       昭和2年3月7日奥丹後大震災により大破

   【関係氏族】
   【鎮座地】創建以来、現在の鎮座地を移つた記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・社務所、絵馬社

   【境内社】

境内地は弥生時代後期〜古墳時代前期の祭祀遺跡となっていて、出土品の石製模造品は儀式等で木枝に懸ける宗教的意味をもつたものである。従つて弥生時代後期には、すでにこの地で神祭りが行なわれていたものと考えられる。境内全域が府の古代祭祀史跡に指定されている。
6世紀頃、大和朝廷に統一された大宮売神は宮中8柱の1柱として、また造酒司(みきつかさ)の神として奉斎されている。
また、当集落は周枳の里として大嘗祭の悠基、主基の斉田の古い土地だといわれている。


大宮売神社

祭神  大宮売神 若宮売神
当宮の創立年代は明らかでないが、境内から出土する多数の遺物により、古代弥生時代の頃、すでに人々の生活があり、稲作民による祭祀、呪術的な力を持つ国の中心の地であったといわれる。
6世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中8神の一柱で、造酒司にも奉祭されこの神を祀る最も古い社で、境内全域は、京都府の古代祭祀史蹟に指定されている。
木彫の御神像(二体、平安初期)や重要文化財指定の春日型石燈籠(二基、鎌倉時代)がある。宵宮、例祭には古くから笹ばやし、神楽、三番叟、太刀振り(京都府無形民俗文化財)が奉納される。
また、大宮町の名は、社名に由来する。
大宮町

社頭掲示板



大宮売神社

延喜式内名神大 大宮売神社
再神 大宮売神 若宮売神
当宮の創立年代は、詳らかではない、境内から出土する多数の祭器、遺物により明らかな様に、神牡としての社がでさる以前に、古代の政(まつりごと)がおこなわれていた地である。遠き弥生時代の頃には、既に人々のくらしがあり。祭祀、呪術的な力をもつ国の、祭政の中心地であつた。(境内全域京都府古代祭祀史跡指定)
六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱として、また造酒司(みきつかさ)の神に奉斉され、この神を祀る最も古い社である。
平城天皇、大同元年(806)に大宮売神に神領2500石、若宮売神に1500石の神封が充てられ、「三代実緑」貞観元年正月(859)の条に、大宮売神に従五位上の神階を綬位している。現存の小野道風書と伝える古額に正一位大宮売大明神、従一位若宮売大明神とあり、平安時代末頃には神階が昇叙されている。御神像二体は、平安初期の木彫でである。
「丹後国田数帳」によると三十町五反十歩の神領があり、中世の頃祭儀は盛大を極め、鎌倉時代(徳治2年刻銘)に建立された、重要文化財指定の春日型石燈篭二基が献燈されている。
現在の忠霊社は旧本殿で元録8年の建築、町指定文化財となつている。
宵宮・例祭には古くから京都府無形民俗文化財の、笹ばやし、神楽、三番叟、太刀振りが奉納され、わざおぎの神、文化発展、子孫繁栄の守護神として崇敬も篤く神威誠に顕著なものがある。
大宮町

社頭掲示板



大宮売神社

大宮売神社(元府社) 周枳小字北村
祭神 大宮売神・若宮売神
延喜式内の名神大二座で、丹後の大七座の中二座の神社である。祭神大宮売神は、天鈿女命であるといわれている。大宮売神は、「延喜式」神名の宮中神祇官の巫の祀る神八座の中の神であり、若宮売神は豊受大神であり、この二神を祀る名神大二座である。
 崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命がこの地に始めて祀るといわれ、「新抄格勅符」には大同元年(806)に神封七戸を充てるとあり、「三代実録」に清和天皇の貞観元年(859)従五位上に授位されている。成相寺の「丹後国諸庄郷保総田数帳目録」には、周枳郷の中に御神領三○町五反一○歩とあり、古くから祭儀も盛大であった。戦国時代には衰微を極めていたが、徳川時代宮津藩主の崇敬も厚く、祭儀も隆昌になってきた。
 当社の正面に約140mの松並木が続き、その先の小字馬場の地は、祭典の時に競馬が行われたといわれ、隣村河辺より当社までに神野(こうの)という所があって、祭典の際神輿の御旅所があり、その近くの今市(いまち)と呼ぶ地は、祭日に牛馬市の開かれた所と伝えられる。
 宮津市府中の明神大社寵神社を、丹後の一の宮といに 当社を二の宮と称するのは、社格も高く祭神の名神大二座によるものである。
 2100余坪の平地の社地は、周枳のほぼ中央の地で、古くからの神域である。明治44年には、境内から多数の勾玉・管玉や各種の祭祀土器が出土した。
 明治6年3月10日郷社に、大正13年4月5日府社となる。
 昭和2年の丹後大地震に、本殿・拝殿など相当の被害があったので、本殿・拝殿・祝詞舎・神饌所・絵馬舎の改築が進められ、同5年4月11日に落成した。
 神職 島谷旻夫
 例祭は8月二午日であったが、明胎より10月3日、現在は10月10日であり、当日は神輿が御旅所(石明神)から当社まで練り歩き、神事の笹囃子・神楽・三番叟・太刀振りは、宵祭とともににぎやかである。
 なお、石灯龍の二基は、一基に「徳治2年(1307)丁未3月7日」の銘刻があり、昭和37年2月2日重要文化財に指定され、神体の二女神像は、藤原時代の作と伝えられている。改築後の旧本殿は、現在忠霊社であるが元禄8年(1695)の建築で、端麗な様式を残している。松並木中の大鳥居の沓(くつ)石六個は、嘉吉3年(1443)の大洪水により流出したという鳥居の礎石である。
 昭和26年大宮町誕生の町名は、この由緒のある神社名を採用した。

大宮町誌



大宮売神社遺跡

大宮売神社は延喜式にも「大宮売神社二座大名神」とある古い神社である。その所在地周枳もまた、往昔丹波を大嘗会の悠紀主基国に定められたことがあり、その時周枳を主基田とされた由緒から周枳の名を使うようになったであろうと言われる。和名抄にすでに周枳の郷名が載っている。
 その境内からは土器・玉類・石製模造品・鉄刀身等がすでに発見されている。明治44年本社の手水鉢建設のための基礎工事の際土中から土器類を発掘したのが最初と云われ、その一部は神社に保管されている。土器類の出土範囲は境内の小溝を繞らした方形に近い特殊地域でそのどの部分にも存在するが、とくにその西半分に多く、拝殿の前の石鳥居の辺がもっとも著しいと云う。その出土状態は地表下一尺五、六寸は帯褐赤色の砂土層で、その下方約二尺は黒色土壌であり、この層の内に土器その他を包含しており、さらに下方の砂利を混じた粘土層には遺物はないと報告されている。この遺物出土層は左右前後に水平に続いていて、その状態は弥生式石器時代遺跡に見るのと甚だ似ており、大正12年、梅原末治発掘の際にも鏡形石製品・璃瑠の勾玉各一個および土器多数を発見している。
 この報告書によると概略次のようである。
一、石製模造品は総数40数点あり、何れも青灰色の滑石または鑞石で作られており、内に勾玉・円形鏡形品・鏃形品・環状品・管玉・小玉等がある。勾玉には長さ一寸五、六分の大形扁平の粗製品および磨研の度のやや高い丸味を帯びた精巧なものおよび小形の模造品がある。円形の扁平品には大きさ径一寸、厚さ一分内外両端に小孔各一を持つ鏡の模造品と認められるものがあり、環状品は二箇発見されており、磨研の度はやや良く表面に滑沢があり、中央に貫通する穴の周囲は一端高くやや紡錘車に近い断面を持ち、大きさは何れも径八分余り厚さは一分である。鏃形品は長さ一寸四分断面は三稜形で本に近く小孔を穿っている。
一、玉形の滑石製品には勾玉の外に管玉と小玉とがある。小玉は臼形の極めて粗製品であるが、管玉には長さ一寸二分、怪三分六厘の潟緑色で質堅牢、精巧に磨き実用に供したと思われるものがある。この外瑪瑙の勾玉および玻璃製小玉等も右の中に混って出土している。
一、土器の類は右にくらべ包含量も多く器形のほぼ完全なもの八十個を出土している。形式は一個の陶質のハソウの外は全部弥生式士器の系統である。これらの土器は高坏のようなものもあるが、大部分は皿・鉢・壷の類で器形は小さく大部分土くね厚手に属し、何れも実用の器としては不適当な品である。恐らく家具の模造品として作られたものと見られる。この種の特質を備えた遺品は大和国三輪馬場古墳に見られる外はその例少く珍らしい遺物であり、特に神社の境内より出士したことは特記すべきである。
 以上の出土品よりこの遺跡は古墳や住居址ではなく、大部分が祭祀用の模造器具であるとみられ、特殊な宗教的意味をもってこの古い神社の境内において製作されたものと推定される。
 右のように大宮売神社の境内遺跡は有名な大和国三輪神社と同じ祭祀用模造品を出士し、神社の古さとともにその由緒を物語るものとして今後も大いに注目研究すべきものである。

大宮町誌



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