往昔大己貴命が沼河姫と当地に居住している時、槌鬼(つちおに)という悪鬼が現れ、その毒気に当てられた姫が病気に罹り大己貴命が嘆いていると、小虫神社の祭神である少名彦命が八色の息を吐きかけて槌鬼を追い出して姫は回復したが、今度はその息のために人や動植物が虫病に苦しむようになったため、少名彦命は「小虫」と名乗ってそれぞれの体内から害源である悪虫を除くことを、大己貴命は「大虫」を名乗って体外から病を治すことを誓い合い、鏡を2面作ってそれぞれ分け持ったことから、「大虫」「小虫」の神として崇められるようになったという。 また、用明天皇の第3皇子麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)が大江山にいた土蜘蛛という鬼賊を征伐するに際して、自ら刻んだ神像を納めて立願したという伝説があり、他に億計王(おけのみこ。後の仁賢天皇)と弘計王(をけのみこ。後の顕宗天皇)が即位前に潜伏したとも伝えられている。 大虫神社は往古は大江山の池ケ成に鎮座していたが中世になつて今の地に遷したとの伝承がある。本来この地は式内社の阿知江神社の地であつたのを、遷つてきた大虫神社が踏襲し、逆に大虫神社の名称のみが残つたという可能性もある。 |
由緒 由緒 創祀年代 約1560年前。 (1)大虫神社の由緒 当神社は六國史存社にして文徳実録に斎衝2年年正月25日加從四位下とあり。延喜の制名神大社に列せられる。当社は住昔大江山、池ケ成に鎮座ありしを中世(室町初期)現在地に遷座する。社地、旧跡、手洗の池等今猶その地に存している。人皇31代用明天皇第三御子、磨子親王自ら神像を造り当社に納め鬼賊の調伏を祈り給う。当社は古代阿知江郷の産土にして旧村桑飼村、与謝村、加悦町、三河内なり。古老の口碑には昔十六ケ村の鎮守であったと言う。明治20年ころまで、加悦町字後野(現在地より西方二粁余のところに一の鳥居、沓石があったが、当時同町にて取り除かれている。 (2)清寧天皇の朝 (或は人皇20代安康天皇とあり)億計(仁賢天皇)弘計(顕宗天皇)の二皇子を当社に匿し奉りしが(大虫神社神主細目氏)播磨の国之供奉せりと言われている。從って大虫神社は、すでに成立しておりその成立には、かなり年代を遡ることができると考えられる。明治6年於豊岡県村社に列せられたが明治8年、本殿、拝殿等再建中、同10年失火により社殿神像、境内地に至るまで悉く鳥有に帰した。同14年再建に着手、同年8月落成。同時に延喜式内、村社、阿知江神社、無格社、床浦神社を合祀する。明治40年神饌幣帛供進神社に指定され大正7年10月24日、昇格府社に列せられる。 (3)大虫、小虫の伝説 大虫神社祭神 大己貴命 小虫神社祭神、少彦名命(小虫神社は大虫神社の西北1.5粁の地に鎮座されている)が、大虫神社と同様、大江山池ケ成に鎮座され、中世現在地に遷座されやはり延喜式名神大社に列せられている社である。 ところで、この大虫、小虫神社の歴史の多くは伝承多く、その始まりは昔、大国主命が沼河姫と加悦に住んでいたころ、槌鬼と言う病いが姫にとりつき、たちまち病いにかかられて大国主命はあまりになげかれたので少彦名命七色に息をはいて、この槌鬼の病いを追いだされたので姫の病いを癒されたがその息がかかったため人や植物が病にかかって苦しむようになり、少彦名命は「私は小虫と名のって貴男の体内に入り病のもととなる虫を除きましょう。」と言われ、大国主命は「私は人の体の外の病を治そう」と言われ、鏡を二面つくられ一つを少彦名命が一つは大国主命が持たれた。ここで大虫、小虫と名のられたと言うことである。 (4)犬鏡大明神 大虫神社を犬鏡大明神と言い伝えられているのは、推古天皇33年磨子親王勅を奉じて大江山の鬼賊を征伐に行かれたときに、丹波の国生野の里に来られたとき八句の老翁が皇子を迎えて白犬を献上したところが、この犬の頭に明鏡を載いているのでこの犬を教導にして雲原村に来られ、皇子は自ら薬師像七体を彫刻された。今この地を仏谷と言っており、皇子は能心鬼賊を誅伐すること、出来れば、丹波の国において、七寺を建て、七体の尊像を寺に安置せんと言われて大江山にむかわれた。大江山の鬼賊妖街をもっていると言うが、この犬の明鏡に照されて、鬼賊はその妖街を発することができずに遂に悉く殺されたと言うことである。この後皇子は祈誓のとおり七寺を建立された。このうち成願寺と言う寺があるがその一寺と言われている。そこで白犬が明鏡を戴き皇子の道案内をして鬼賊を征伐べきたことはこの白犬のおかげとして、大虫神社に葬ったことから今も拝殿前に一対の明鏡をさげた狛犬がある。このような言い伝えから、一つには犬鏡大明神と言われ崇拝されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大虫神社 桑飼村字温江小字虫本鎮座、府社、祭神大巳貴命(一曰大山咋命)由緒六國史現在社にして文徳実録齋衡2年正月25日加従四位下とあり延喜の制名紳大に列せられ大川、籠、小虫、大宮売神社二座と共に臨時祭に預る(延喜式三古事類苑)大日本神祇史に「延喜の制天神地祇の名紳大社に列するもの305座就中285座は定まりて名神祭に預れり丹後大川、籠、大虫、小虫、大宮売神社二座」と載す。往古は大江山の池ケ成に鎭座ありしを中世今の地に遷すといふ。尤も神祇志料には神社覈録、宮津藩神社調書、豊岡縣神社調書などを引きて「温江郷温江村温の谷にあリ」と爲せるが如何にや、田教帳当社神田十四町七反二百三十六歩御免とあり。明治6年2月10日豊岡縣より村社に列せられ,14年8月再建同41年4月10日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、大正7年10月24日昇格府社に列せらる。当社安康の朝履仲の皇孫億計弘計二王御避難の傳説あり、氏子65戸崇敬者2441戸。 府社に昇格以後毎年例祭、祈年祭、新嘗祭には京都府より神饌幣帛料を供進せられ其都度知事代理ごして郡長を参向せしめらる。 境内床浦神社阿知江神社あり後者は延喜式所載の阿知江神社なりと云ふ。 与謝郡誌 |
大虫神社 大己貴命、少童命(おわらべのみこと)、大田命を祭る。 延喜式の名神大社で『文徳実録』には、855年(斉衡2年)正月25日「丹波国大虫神社加従四位下」とある。もと大江山の池ケ成の地に小虫神社と共に鎮座していたが、中世室町時代の初期に現在地へ移されたと伝えられ、旧社地には、今も御手洗の池が残っている。 当社は古代から朝廷はもちろん、貴族や武士に至るまで、崇敬が厚く、成相寺の国宝『丹後国郷保荘田数目録帳』に当社領一四丁七反二三六歩と記され、今も御供田、灯明田、油田等の地名が残っている。昔阿知江郷一六か村の鎮守で、加悦町後野地蔵堂付近に一の鳥居があったが、1887年(明治20年)頃その礎石が取り除かれた。 当社には用明天皇の第三皇子麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)が大江山の鬼賊土蜘蛛征伐の時、自ら神像をつくって納め立願されたという伝説があり、また、億計、弘計王が滞在したともいわれている。1873年(明治6年)に豊岡県から村社に指定された。1877年(明治10年)4月社殿再建中失火のため、社殿や古神像(麻呂子親王作という。)をはじめ、境内社に至るまで全焼、1881年(明治14年)再建、その後数回にわたって増改築されて今日に至っている。 現在の神像は、法量47cm、1826年(文政9年)の制作で、江戸時代の神像彫刻の一端を知ることができる。 1881年(明治14年)に床浦神社(祭神大田命)と式内社、阿知江神社(祭神少童命)が合祀された。 1908年(明治41年)神饌幣帛料供進神社に指定され、ついで1918年(大正7年)10月24日府社に昇格した。 1929年(昭和4年)4月6日、境内の経塚が発掘され、経筒(陶製一、銅製二、)直刀残欠、経文紙片一○枚等が出土した。 また、境内に宝篋印塔と層塔、1470年(文明2年)の作がある。 境内社に現皇稲荷神社(祭神倉稲魂命)、若宮社(遷座祭用仮殿)がある。 少彦名命と宝鏡 大国主命を祭る大虫、少彦名命を祭る小虫、両神社の由来で、大国主命が沼河姫と当地に住んでいた頃、槌鬼という悪霊が姫にあたったので、たちまち病気になってしまった。大国主命があまり嘆くので、少彦名命が八色の息を吐いて槌鬼を追い出したので、姫の病気は全快したが、その息のために人や植物が虫の病にかかって苦しむようになった。そこで、少彦名命は「私は小虫と名のってあなたの体の中に入り、病のもとになる虫を取除きましょう」と言ったので、大国主命とちぎりをかわし、大国主命は「私は人の体の外の病気をなおそう」と言って、鏡を二つつくって、一つは少彦名に与え、一つは自分が持って大虫と名のった。これが現在大虫神社、小虫神社の社名の由来となったと伝えられる。 加悦町誌 |