式内社吾野神社の比定については、丹哥府志は菅野の上山神社としている。 |
上山神社 筒川村字菅野小字本菅野鎮座、指定村社、祭紳天火日命、天津日子根命,活津日子根命、天忍穂耳命、熊野久須日命、多紀理姫命、多紀理姫命、市岐島姫命、勧請不詳、丹哥府志には延喜式内吾野神社なりとあるも丹後國式内神社證實考には吾野神社は加悦町にありとて当社の事は措て言はず。蓋し售來八大荒紳を祀りしものゝ維新の改革によりて荒紳の称を廃し五男三女神を祀るとなし上山神社と称して明治6年2月村社に列せられ大正10年6月24日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、社殿拝殿完備し、氏子67戸あり。 与謝郡誌 |
菅野の神楽・太刀振り・花の踊り 菅野の氏神上山神社は室町初期の神像や棟札をのこす古社である。4月25日の例祭に特色のある神楽や太刀振り・花の踊りが奉納される。この日、枝垂れ花も鮮やかな猩々緋・傘鉾をおしたて、獅子を先頭にした一団がにぎやかに宮へと練込んでゆく。神楽をはやす「獅子荷」を舁ぐ人々もみえ、太刀振りをはやす大太鼓と棒振りをのせて疾走する楽台もある。祭の熱気がこうしていちだんと高まるなかで、やがて獅子が舞い、太刀振り・花の踊りが華やかにそして真摯に奉納される。 ここの神楽は、近在では「菅野の尾張獅子、落山の伊勢神楽」といって名のとおった存在である。落山は山一つ越した向うの地区でゆききがあったが、互いに系統の違う獅子舞を伝えている。 神楽はいま12曲伝えられ、一、岡崎、二、神楽、三、剣の舞、四、花の舞、五、おそめの舞、六、玉の舞、七、天狗の舞、八、法螺の舞、九、両剣、十、不動の舞、十一、大神女郎の舞、十二、和唐内である。曲により天狗面をかぶりガリガリ(ササラ)を持つ天狗が出て、これは少年の役だが、他はすべて大人で、もとは資格をきびしく言い長男以外はたずさわれなかったという。はやしは「獅子荷」につけた太鼓・締太鼓と笛である。一人が獅子頭をかぶり尾持がついて八方を踏むしづめの舞「神楽」など、大神楽と共通する曲だが、この神楽を特色づけるのは次のような曲である。 おそめの舞 おそめ久松ともよび、尾持をしたがえた獅子がスゲ笠と扇子をもち「おそめの唄」にあわせて舞う。 大神女郎の舞 ササラを持ったヒョットコが扇子・鈴を持って八方を踏むオタフクにからむ。「おかめ女郎おかめ女郎、ちょっとこちらへござんせえの、なんの暇のざよることでない、チチャゲモチャゲの相談がととのい」など一切れごとに言うシャレがおもしろい。 和唐内 薬屋、ついで和唐内、さらに獅子(二人立ち)が登場し、だんだん口上があって和唐内が獅子の生捕りを演じる。「はってふだんずきんはとらぬ、恵美須は身持がうすぎたない、しょうじん日にはつきやわれぬ、蝦夷松前にあらばこそ、体はおだぎに脇の下、布袋は土仏福(福禄寿)六人の、月代そるに暇がいる」といった長い口上である。和唐内は帷子の上に衣裳を着、肩衣に化粧まわしをつける。肩衣はひきぬきになっていて、立ちまわりの時に早がわりをみせるのである。 いずれも府下に類のない獅子舞である。「和唐内」は獅子芝居であり、獅子の腹を楽屋がわりに登場するのも興味ぶかく、東海地方に同趣の獅子舞がかなり伝承されるようであるが、流伝の歴史は明らかにしがたい。 次に行われる太刀振りは、例の棒太刀をもって太刀振り装束の青年が勇壮に群舞するもので、はじめに幼児二人の棒振りがある。新発意の名はないが踊り坊主とよぶ大人が飾りウチワをもって棒振りにつき添い、太刀振りをリードし、大太鼓が拍子を打つのも他と同様である。 最後に奉納される花の踊りは、祭の参加者全員によって行われるが、構成要員は、締太鼓を打つ小太鼓二人(太鼓持がつく)、音頭取り一人、踊り子四人である。本殿を背に音頭取り、それに向い合って小太鼓、その後に花をもった踊り子が並ぶ。ほどなく小太鼓が打ち出され、「イョウヲン 花が見たくば都へござれ」と歌がはじまると、踊り子が立ち上がって左手の花を扇子で打ちながら足を左右にひらいて踊る。大刀振りなど全員が役の姿のままそれに合わせる。小太鼓の打ち方に片等バチと両バチがあり、片バチの場合にも締太鼓の一方を太鼓持にもたせやや中腰で打つ。 「花の踊り」以下、「篠原踊り」「まりの踊り」「名所踊り」「傘踊り」「竹の踊り」「宝踊り」「恋の踊り」の八番の踊歌が伝えられている。支度は、小太鼓は太刀振り装束、音頭取りと踊り子は着物の着流しに白足袋で下駄をはく。踊り子は四つの組の代表がつとめるきまりである。花は菊の造花を竹にさし、歌を書いた短冊を下げたもので、造花は五本と決まっている。人気は神楽や太刀振りに集まるが、真摯なこの花の踊りは風流踊りの古風をよく伝えのこすものといえよう。 このようにこの祭は多彩な芸能をともなっている。その謂れは一切伝えられないが、以前ははるばる宇良神社の祭礼に参加した芸能の一つであり、神楽のほかはその始源が中世にもさかのぼりうるものと考えられる。なお境内に建つ舞堂は地狂言も演じた舞台であり、二重台なども現存し往時の盛況を物語っている。 伊根町誌 |