与謝郡式内社の阿知江磯部神社、あるいは吾野神社に比定する説もある。また億計・弘計二皇子が難を避けた余社郡はこの地をさすという伝説もある。拝殿額には「須津彦神社・須津姫神社」とある。 |
須津彦神社 旧式内・須津彦・須津姫神社は、もと「阿知江岩部神社」であるというのは丹哥府志などである。祭神は履仲天皇(去来穂別命)とその皇后(久呂比売命)であるといゝ、例の億計・弘計が丹波与佐の倉梯山にのがれてきたという伝説につながっている。 丹後の宮津 |
須津彦神社・須津姫神社の由来 当神社は、男神女神の二神をお祀りする稀な神社です。 須津彦神社は去来穂別天皇(第17代履中天皇・在位427−32)須津姫神社は久呂比売命(履中天皇の皇后)を祭神としてお祀りしています。 王谷(大谷・此処から西へ1Km)の地に建立された当社は、大同2年(807)現在の吉里の地に遷座されて村人の氏神神社となり、嘉祥2年(894)社殿を再建、その棟札に、須津彦・須津姫、として崇めることが記されています。 延長5年(927)に記された「延喜式」神名帳によれば、丹後国与謝郡の小社として阿知江岩部の神社となったと記され、これが須津彦神社と云われています。 語り伝えられている神社創建の謂われ 安康天皇(第20代・在位453−56)の御代、雄略天皇(第21代・在位456−79)に父・市辺押磐皇子(履中天皇の子)を殺された弘計の命(後の第23代顕宗天皇・在位485−87)は、兄・億計の命(後の第24代仁賢天皇・在位488−98)と共に与謝郡の小後に難を避けられました。二皇子は、身を隠された御所之内の地に仮宮を造営され、是を真鈴宮と名付けられて住まわれました。この時、祖父の去来穂別天皇と祖母の久呂比売命の御霊を王谷(大谷・現宮ケ谷)の地に鎮め祀られたと伝えられています。 当神社の境内には、摂社として弘計の命は西之荒神(大西大神)億計の命は東之荒神(東山大神)として祀られています。 社頭掲示板 |
須津彦神社・須津姫神社 ここ旧式内・須津彦・須津姫神社は、もと「阿知江岩部神社」であるというのは丹哥府志などである。祭神は履仲天皇(去来穂別命)とその皇后(久呂比売命)であるといゝ、例の億計・弘計が丹波与佐の倉梯山にのがれてきたという伝説につながっている。いずれにしても、この土地の古さを物語り、とくに前記の倉梯山周辺にちらばる古墳地域は、宮津市内におけるもっとも重要な対象として、観光客や研究者にも便利なように施設する必要があるのではなかろうか。 丹後の宮津 |