板列稲荷神社
いたなみいなりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】板列神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】板列稲荷神社
   【住所】京都府与謝郡与謝野町岩滝板列582
       北緯35度34分19秒  東経135度9分4秒
   【祭神】稻廼売神
   【例祭】5月1日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立の由緒不詳
       文政9年(1827)火災焼失
       明治6年2月村社
       明治43年4月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「稲荷神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・幣殿・社務所・手水舎

   【境内社】水無月神社・八幡神社

毎年5月1日の例祭に、町の無形文化財・岩滝獅子神楽が奉納される。


板列神社

例祭に奉納される岩滝獅子神楽は与謝野町指定無形民俗文化財に指定されています。板列神社の創建は不詳ですが延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社板列神社の論社で古くから信仰されてきました。歴代領主からも崇敬され、中世は丹後守護職一色氏の祈願所として社運も隆盛しますが、永禄年間(1558〜69)、織田信長の丹後侵攻の兵火により社殿が焼失したことで衰微し、文政9年(1826)の火災で記録なども焼失しています。

与謝野町観光・旅行見所



板列稲荷神社

岩滝町字岩瀧小字板列鎭座指定村社、祭神稻廼売命、旧と修験、龍泉寺、相伝院の鎭守として陀吉尼大稲荷を祀りしも、再三祀融に罹りて寺院廃れ山伏僅かに命脈を繋ぎ、丹哥府志岩瀧村の附録の部に「稲荷大明神」と録するもの蓋し当社なり。幕未当時宮津藩の寺社御調書の中に岩瀧村稻荷社宮守岩本典膳とあるは即ち相伝院の山伏にて維新改廃神職となり修験行者全く廃る。明治6年2月豊岡縣より村社に列せられ同12年水無水堂を移して社殿に充て漸く神社としての實を備へ、同43年4月12日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。或は曰ふ延喜式所載板列神社は当社にして元伊奘冊命を合祀せしも何時の間にか稻酒売命だけ祀られたりと。祭典5月1日氏子344戸。
 小字大風呂に三寳荒紳(日内神社)天満宮、小字町田に境荒神あるも無格社なり。

与謝郡誌



板列稲荷神社

鎮座地  京都府与謝郡岩滝町字岩滝小字板列582番地
神社名  板列稲荷神社
祭神   稲迺売神
祭日   5月1日
社殿   本殿 流造  間口二間(3m63cm)
            奥行二間(同)
     拝殿 切妻造  間口二間(3m63cm)
             奥行二間(同)
     幣殿 切妻造  間口二間(3m63cm)
             奥行五間(9m90cm)
       奥行二間半(4m55cm)
       上屋  切妻造  間口四間(2m27cm)
主要建物   輿倉  社務所
境内地    874坪(2889平方メートル) 境内神社   水無月神社
氏子数    791戸(昭和43年現在)
由緒
 当社の創立年代は不詳であるが、延喜式神名帳に「官祭に与れる一社」とあるところからみると、相当古いものであると想像される。
 然るに、中世に至り社運衰退し、殊に地続きであった別当の龍泉寺が一色家の祈願所であるという理由で永禄年間(1558−69)細川氏のため焼却され、板列神社はそのまきぞえをくい、境内の建物は悉く焼失した。当時の村民は深く之れを歎き、その焼跡に小祠を建て祭事を続けて来たが、その後、文政9年(1826)再度の罹災で僅かに残存していた古記、社伝等すべて鳥有に帰した。
 こうして永い歳月の間に今日の如く板列稲荷神社と称し稲迺売命を奉祀している。
 尚現在の社殿は明治7年(1874)仮建築をしたまゝのものである。

岩滝町誌



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