式内の板列神社はもと当字西端の加舞満久(「ガンマク」の森)に鎮座していたが社殿が荒廃したので当社(八幡宮)に併合し、それ以来板列八幡と称するようになつたという伝承がある。 |
板列八幡神社 修造の神明造りの本殿、拝殿、幣殿からなり、誉田別命(応神天皇)と息長足姫命(誉田別命の母・神功皇后)が祀られ、非公開ですが、平安時代の木造女神座像2体(重要文化財)が残っています。創建年は明らかではありませんが、京都山科の小野曼陀羅寺を開いた仁海(951〜1046年)が創建したという説もあります。境内には高良神社、稲荷神社、瑞若宮神社、三田神社などがあります。御神像の木造女神座像に加え狗犬、神鏡などの文化財を所蔵しています。 岩滝の守り神です。 http://www.bombit.jp/tango/tango/iwataki/yawata.html |
板列八幡神社 岩瀧町字男山小字板列、指定村社、祭神誉田別命、配祀息長足姫命、稻廼売命、奈良朝諸国に國分寺を置き平安朝又国府に八幡宮を祀る。累代國司領主の崇敬あり、殊に名僧小野仁海僧正此地に出で永承4年諸國に佛舎利を納むるに際り当社へも之れを納め阿彌陀如來を祀るといふ。当社のこと石清水文書に板浪別宮とあり総論に詳かなり、或曰延喜式板列神社もと当字西端なる加舞満久に鎭座ありしも社殿荒敗せるより当社に併合し爾來板列八幡と称ふるなりと、丹哥府志及び神社志料には式内板列神社今八幡宮と称すとあり、宮津藩寺社名前取調帳男山村八幡社毛呂石見、代々宮津藩主の尊崇篤く数々武其を寄進し献的を行ふ。天保5年社殿再建明治6年2月村社に列せられ43年10月14日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。氏子40戸祭典8月15日の處今10月1日、社寳経筒及ぴ古鏡あり。境内末社稻荷、瑞若宮、高良、三田の小祠あり。 小字板列に高岡社、愛宕杜。ヅメに加舞満久社、岡に岡社、猿目盲に愛宕社皆無格社なり。 与謝郡誌 |
板列八幡神社 鎮座地 京都府与謝郡岩滝町字男山178番地 神社名 板列八幡神社 祭神 誉田別命(応神天皇)息長足姫命 稲廼売命 祭日 5月1日(古くは8月15日) 3月15日 12月15日 社 殿 本殿(神明造)、拝殿、幣殿 主要建物 社務所、輿倉、手洗舎 境内地 779坪 境内神社 高良神社、稲荷神社、瑞若宮神社、三田神社 文化財 重要文化財 木造女神座像二躯 文化財 狗犬一対 神鏡一面 氏子数 337戸(昭和43年現在) 古くから一の宮、国分寺、八幡宮を一国三分と称し、当社は丹後に於けるそのゆかりの宮である。 石清水文書に「板列の庄々」という文字のあるのを見れば、当時この附近一帯は石清水八幡宮の所領の荘園であったかと思われ、その関係上八幡宮が建立されたとも推察される。また、一説(天橋記)には「真言宗の小野僧正仁海は与謝郡板列の出身とあり、その由縁でこの地に八幡宮を勧請した」とも伝えられる。 以上のような理由から延喜式内板列神社はこの八幡宮であるといわれている。 また、板列神社は元男山の西方「ガンマク」の森にあったのを社殿荒廃等の理由で八幡宮に合併され、それから板列八幡神社とよばれるようになったのであるともいわれている。 成相寺の古文書に依れば「八幡宮縁起一巻、八幡宮の宝前にあり」と記されているが、遺憾ながら今日はそれがなく、創建及び沿革等を知ることはできないが、丹後国与謝郡田数帳を見れば八幡領なろもの四十町歩に及び、又、近世に至っては城主、藩主などの崇敬厚く、特に宮津藩主本庄氏は屡々参詣し、寄進等を行ったということである。 現在の社殿は神明造、桧皮葺で天保5年(1834)に再建され特筆する程のものではないが、御神像は古く、極めて傑作であり、大正14年(1925)国宝に、昭和25年8月29日重要文化財に指定された。 その一躯は高さ41cm8mm、一躯は40cm8mmで、高雅、端麗な刀法と剥落した胡粉色の衣紋の一面にうすく見える図の模様は明らかに藤原時代の特徴が窺われる。 口碑によればこの御神体の外に僧形八幡の像が一躯あったが、明治35、6年頃(1902〜3)不明となった。 (註)明治初年の氏子数は男山村140戸、岩滝村370戸であったが、明治7年(1874)岩滝村は雛脱した。 仁海僧上については密宗祖伝に「仁海者丹後与謝郡板列里宮道氏」とあり、元享釈書には「与謝県板浪里宮道氏」とある。この「宮道氏」は当時の姓氏になく、もし社氏の子という義であれば八幡宮は仁海以前の創立ともいえる。 昭和43年重要文化財保全のため本殿に収蔵庫が建設された。 岩滝町誌 |