元は、現社より東北の刈安(古久住)の奥宮にあり、その後刈安に移った後、弘化4年(1847)にこの地に遷座したといわれている。 |
木積神社 木積神社(元村社)久住小字中ノ谷 祭神 億計命・弘計命・大山祗神 当社は「延喜式神名帳」には、三重神社とともに与謝郡内にある。「丹哥府志」に「木積神社(延喜式には与謝郡の部に出す)木積神社今新熊野宮と称し億計・弘計の二皇孫を祀る。俗に高森大明神、三島大明神といふ。億計弘計の二皇孫爰に住居せられしより村を皇位村といふ。」とある。二皇孫は履中天皇(406−11)の皇孫億計計・弘計の二王で、三重の長老五十日真黒人の家に隠れていたといわれる。 「丹後旧事記」に「木積神社皇住村祭神弘計尊億計尊延喜式小社」とあり「御料所内記」にも「木積神社式内三島大明神祭10月12日久住村」とある。なお、祭神大山祗神は山の神である。 木積神社の名の由来木積山は、周枳・明田・久住・河辺にまたがる山であり、久住の地は延喜の代には三重郷として与謝郡に属していた。 当社は刈安(かりやす)の奥宮に鎮座の後、刈安の宮現在の古久住(こくすみ)口に移った。久住の村落が南の地に移動したので、弘化4年(1847)8月に現在地の中ノ谷に遷座した。古久住口の元地には、石を並べた階段の跡地が残っていたのが確認されていたが、昭和55年の農地圃場整備事業により56年3月に土砂により埋没されてしまった。 式内社としての当木積神社は、「丹後国式内神社取調書(京都府蔵)」によると、明治の初めに、当地方が属していた豊岡県によって、岩滝町弓木小字石田の山王権現に移され、式内社木積神社と称されている。 なお、延利の高森神社の祭神は「中郡神社明細帳」には不詳となっているが、安置されている神像は、当社の祭神の二皇孫の一体であると伝えられていることは、高森神社の項で前述した通りである。 大宮町誌 |