大屋神社
おおやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】三重神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】大屋神社
   【住所】京都府京丹後市大宮町森本
       北緯35度35分4秒  東経135度7分36秒
   【祭神】五十猛神 木花開耶媛命
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       明治6年大屋神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・手水舎

   【境内社】

大屋神社境内に「式内三重神社」の石柱が建てられている。
村誌によると、延喜の時、神号を式内三重神社大屋大明神と称したが、明治6年に大明神が廃され社寺改めの際に大屋神社とした、と述べている。


大屋神社

大屋神社(元村社) 森本小字当城
 祭神 木花咲耶姫命・素戔嗚命・他二座不詳
 文永7年(1270)に小字宮の奥、通称荒神谷に勧請し、寛文8年(1668)に現在地当城、通称奥の谷に遷座したといわれる。元禄11年(12698)巳寅10月17日の社殿建造の棟札には、「三重神社大屋大明神」とあり、「丹哥府志」には「大屋大明神」とある。
 明治初年に大屋大明神を大屋神社に改め、明治6年2月村社に指定され、祭神を木花咲耶姫命とし、祭日は9月午の日であった。
 明治17年の「中郡神社明細帳」には、祭神を木花咲耶姫命を主神として、素戔嗚命と一座を不詳とし、素戔嗚命と不詳の一座は他より移転合祀したと付記している。その他よりというのは、境内社の尾下明神の祭神の素戔嗚命と、同地主荒神の祭神不詳を合祀したものである。
 その後、大正10年2月の「中郡神社台帳」(三重郷土志)には、大屋神社の祭神を木花咲耶姫・素戔嗚…った谷集落(明治17年、七戸)が、氏神の三宝荒神(谷村大明神)を明治6年に三柱神社と改め、祭神を不詳としていたのを同集落の離散がつづいたので、同41年7月18日に大屋神社に合祀したためである。
 なお、当社の西方の境内社には、本社に祭神を移した、前述の尾下大明神・荒神大明神・谷村大明神の三社を祀っている。
 神職 島谷旻夫 (兼)(周枳大宮売神社神職)
 明治28年8月に本殿の上屋を再建、昭和50年1月の雪害に大木が倒れ、拝殿が倒壊したので、本殿の上屋と拝殿を再建し同51年6月竣工した。
当社は丹後三の宮とも称され、現在の祭日は10月10日である。笹囃子・太刀振りを奉納している。

大宮町誌



大屋神社

(社誌抄)村社大屋神社
一祭神 木花開耶比売命
一由緒 当社の古書に元社宮の奥今社奥の谷大谷大明神縁式尊号木花開耶姫命也文永7年6月11日に御造営座す時の将軍宗尊親王様と号字名宮の奥と云ふ所に鎮座す此三重谷中六ケ村の氏神也
丹後国中郡森本村氏神古き書写也
同社棟札は寛文8戌申年宮の奥より奥の谷へうつす、人皇114代元禄11歳戊寅10月17日祥日文化7年迄113歳に成る、建造三重神社大屋大明神、征夷大将軍内大臣正二位右近衛源綱吉公宮津城主奥平熊太郎、大工棟梁宮津富田又左衛門、又源綱公正二位内大臣征夷大将軍兼右近衛大将任御治世徳川11代征夷大将軍源家斎公右大臣也奉建造三重庄内大谷大明神宮殿并上屋共、宮津城主松平伯耆守、大工棟梁宮津富田長五郎大和也、文化8未冬28日写置く者也去る明治6年2月10日村社に列せらる
一社殿間数 三間半四面
一境内坪数及地種 949坪官有地第一種
(村誌)大屋神社社格は村社(并に)社地東西十一間南北二十六間一歩、面積三百三坪、社地は除地本村中央の北方にあり延喜之時神号を式内三重神社大屋大明神と称して金像たりしが明治6年大明神を廃せられ社寺御改の際神体白幣に改められて大屋神社と称し村社に列せられ祭神木の花咲耶比売命なり祭日は毎年9月午の日なり
按、式内三重神社につき当社と字三重の三重神社と異議あり三重神社の条参照すべし

中郡誌槁



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