三重神社
みえじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】三重神社 丹後国 与謝郡鎮座
          (旧地)三重神社【旧地】

   【現社名】三重神社
   【住所】京都府京丹後市大宮町三重133
       北緯35度34分6秒  東経135度6分49秒
   【祭神】豊宇賀能売命・健御名方命・軻遇槌命・興津彦命・興津姫命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       明治24年に三重神社として遷座合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は南方700mの竹野川が流れを北方へ変える谷間の河岸に鎮座
        明治24年に三重神社として現在地に遷座合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「酒戸古神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

かつては酒戸古神社と称し南方700mの竹野川が流れを北方へ変える谷間の河岸にあつた。 明治24年に酒戸古神社、三谷神社、諏訪神社の3社が三重神社として諏訪神社の地に遷座合祀。


三重神社

三重神社は与謝郡の項に記されているが、与謝郡には該当する神社はない。三重郷(三重および五十河地区)は近衛天皇の久安2年(1146)丙寅2月、郡分(こおりわけ)があって従来与謝郡に属していたのが丹波郡に編入されたという。(丹後古事記伝・中郡誌稿・三重郷土志)
 現に三重の水戸谷峠頂上付近に郡分(こおりわけ)という地名が残っている。式内社三重神社は郡分の近くの酒戸古にあったので古くから酒戸古神社と称していた。三重区内には字上地に三谷神社、中町に諏訪神社、下地に酒戸古神社の三社があったが、三社合併の議がおこり、明治22年1月29日三社を合併して三重神社とするの許可を得て遷座合祀し、明治24年9月9日より三重神社と呼び、酒戸古神社の祭神豊宇賀能売命を主神として奉祀している。
三重神社(元村社) 三重小字荒神谷
祭神 豊字賀能売命
相殿 建御名方命・訶具土命・興津彦命・興津姫命
 「延喜式神名帳」に三重神社は与謝郡にあるが、「丹哥府志」の「三重村 三重神社、延喜式に与謝郡に在りとす、三重の神社今酒戸古大明神と称す。」とあり、「宮津府志」などにも、三重神社を中郡三重村としている。延喜の時代には、三重谷は三重郷として与謝郡に属していた。
 三重神社は、小字宮の前通称酒戸古に鎮座し、戦国時代に衰退したが、祭神は酒造の神豊受大神であるので、酒殿の神、酒戸古大明神と称していた。明治6年2月逆鉾神社と称し村社に指定された。明治24年に荒神谷に地に合祀した跡地に「延喜式内三重神社旧跡明治35年8月」の碑が建立されている。9月21日が祭日で下三重が祀っていた。
 しかし、三重には村社がなお二社あって、三谷神社、諏訪神社と称していた。三谷神社は、三坂谷の山林にあって古くから三宝荒神を祀っていたが、維新後に荒神の称を廃して地名をとり村社三谷神社と号し、祭神を軻具土神(防火の神)興津彦、興津姫(両神ともかまどの神)とした。明治24年荒神谷の地に合祀した跡地に「三谷神社旧蹟祈念碑」が建っている。祭日は9月16日であり、上三重が祀っていた。
 また、大内谷宮ヶ谷にあった諏訪明神は、嘉吉3年(1443)の大洪水に流失し。北垣の地に移った。(この地を小字御諏訪と称している。)寛政6年(1794)3月に、村の中央西方の当地地主荒神を祀る小谷口の山林の地に遷座した。明治の初め建御名方命を祭神として、村社諏訪神社と号した。祭日は8月2日であり、中三重が祀っていた。
 以上3村社は、明治中年ごろ合併の議がようやく熟し、諏訪神社の境内を拡張し、荒神谷通称小谷口を境内として、明治24年3月24日三社をここに合祀した。同年9月9日延喜式の神名を復興して、三重神社と称し、祭神を三社の祭神とし、主神を豊宇賀能売命とした。
 祭日が、三社とも別であったが、天明6年(1786)から9月21日に統一し、明治15年以来は秋分の日としたが、現在は10月10日である。祭の当日は合祀前の旧逆鉾神社、旧三谷神社の跡地に神籬を設けて、隔年毎に両跡地から三重神社へ神事の笹囃子と神楽が練りこむ。
神職 嶋谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
 当社の一の鳥居(寛延4年(1751)は、旧逆鉾神社から、二の鳥居(寛政5年(1793)は旧三谷神社より、本殿(安政4年(1857)、上屋(安政2年)(1855)は、旧逆鉾神社の社殿を移したものである。
〔境内神社〕
稲荷神社
祭神 倉稲塊命・若宮比売命
旧三社の稲荷神社を合併し祀った。

大宮町誌



三重神社

(三重神社由緒)村社 三重神社
 祭神 豊宇賀能売命 健御名方命 軻偶槌命 興津彦命 興津姫命
当三重神社の主神と崇敬奉祀する所の旧逆鋒神社は延喜の聖朝の官簿に記載せらるる式内三重神社にて祭神は酒殿神豊宇賀能売命なる事国史野乗に散見す然而由緒徴証の一端は倭姫世記に酒殿神一座和久産霊神之神子豊宇賀能売命也云々清酒善醸云々とあり神楽歌に此神酒は誰の酒曾阿毛仁座豊岡姫の醸し神酒とあるも此大神の御功績を賞賛せし確証也抑三重神社の社号も訛伝せし原因を探に足利将軍義輝の政権を掌握せしとき兵乱年を累て神官氏子も離散し為に本社の古典旧式も殆んど地を払ひ社宇も破損し境内雑草の葎に変じたれども有繁に酒所神の音訛は口語に残りしまま旧幕府の治世に到て里老の口碑を文字に当殖て酒殿、酒?(缶編に尊)、逆鉾と国音親き方に係て字義に不抱叨に数百年の星霜を経たりき往古より三重郷三重村字平尻に神佐備乍御鎮座なりしを明治6年3月10日社格を村社に列せられ明治24四年3月同村小字小谷口村社諏訪神社へ同村小字三坂谷村社三谷神社と合併祭祀の許可を得同年9月9日旧三社の社号を全廃し更に三重神社と改称し豊宇賀能売命を以て主神と尊崇すべき旨許可せられたりき旧三谷神社の祭神は軻偶槌命興津彦命興津姫命にして火食必用を守護の大神にして往古より崇敬を重じ来りしなりき明治6年3月10日村社の格に挙られき旧諏訪は祭神健御名方命にして造国に功労ありし大神なること皇典にも顕然たれば信仰し来りしなりき古昔は大内谷小字宮谷と云ふ所に凡二間に三間の白石あり此所に社頭ありしを嘉吉年間洪水の為に此霊石小字北垣迄転出し該地に留るに依て此地に社宇を建築したるより地名を御諏訪とも唱へり然るに寛政6年甲寅春現今の社域に遷座ありき明治6年3月10日社格に村社に列せられたり各神威の尊厳なるを惶みつるになん(要抄)
(三重神社旧地石碑銘文)明治24年3月奉レ遷三本社於二小谷口一已而遺跡今多帰二民有一因レ茲建レ碑永伝二後世一云
(村誌)三重神社社格は村社なり祭神者豊宇賀能売神也勧請は上古に係り其時代不詳抑も当社の祭神清酒醸造の事に功績あり故に其神徳を仰て酒殿大神と尊称す倭姫世紀に曰く酒殿神一重和久産霊神子豊宇賀能売神云云善醸清酒畢竟御徳号を以て神名の如くに称し慣し来る三重郷内崇敬の総社にして延喜式神名帳に栽する処の一社也
右三重神社社地東西四十四間南北十六間七分面積七百三十四坪本村より二町計南方の平にあり祭日は9月21日を以てす
 按、村誌引用する処の倭姫命世紀酒殿神の分註には「豊宇賀能売命、缶モタヒニ座、丹波竹野郡奈具社座神是也、天女善爲レ醸レ酒、飲二一杯一吉万病除之、形石坐也、」とあり丹波竹野郡云云万病除之は例の丹後風土記により文を成せしものなり而して豊宇賀能売神を和久産巣日神の子とするは御鎮座伝記御鎮座本記等に據る
(式内神社取調書)三重神社、三重谷(頭註)(覈)三重村(明細)丹波郡三重村9月21日称坂戸古明神又森本村大屋明神(考案記)森本三重両村とも三重郷内にて森本村は従来三重社の由唱居三重村の義は今般式社調に付村名より俄に申出たる也(道)森本村大屋大明神森本より奥口の村を三重谷と云和名抄丹波郡に三重郷あり案ずるに山田村彌刀谷より三重村、明田、延利、久住、五十河等の村々より野間谷迄與佐なりしなるべし与謝郡は大郡丹波郡は小郡なれば丹波郡に属しか地図を可考也(式考)森本村大屋明神を三重神社と宮本池臣書出しより混乱の基を醸せり云々森本村に元禄11年寅10月17日と記したる棟札に奉造三重神社大屋大明神とあり寛文8申年9月棟札に奉再興大屋大明神とあるのみにて式社に非ること明白也三重村の酒 (缶編に尊)明神は決めて三重神社なるへし(後略)(豊)森本村(今属丹波郡)字奥の谷10月28日
(神祇志)三重神社○今在中郡三重郷森本村、称大屋明神、或云在中郡三重村、称酒 (缶編に尊)明神、未知孰是、

中郡誌稿



丹後国INDEXへ        TOPページへ


学校統廃合 学校一覧 高精度の学校住所録