倭文神社
しどりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】倭文神社
   【住所】京都府与謝郡与謝野町三河内1453
       北緯35度31分10秒  東経135度5分32秒
   【祭神】天羽槌雄神
   【例祭】5月2日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】和銅3年(710)7月筬(オサ)村石崎の山に齊き祀る
       天録12年(981)12月従二位
       貞応2年(1653)今の地に奉遷
       明治6年2月村社
       明治40年3月幣帛供進神社指定
       昭和19年11月府社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初筬(オサ)村石崎の山に齊き祀る
        貞応2年(1653)今の地に奉遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「石崎大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拜殿・舞殿・土藏・神門・社務所

   【境内社】稲荷神社・粟嶋神社

和銅3年秋7月丹後国に初めて綾を織る国造海部甘愛志命を奉じて倭文大神ヲ筬(おさ)村石崎の山に齊き祀る。此時以来俗に石崎倭文大明神と奉称し、御祭神は羽槌雄命で上古織物を初め給いし祖神である。


由緒

当神社は祭神を天の羽槌雄の尊と申し上げ延喜式内社であって從二位に叙せられ昭和19年11月20日付け神祗院第19第33號を以て府社に昇格されました。
終戦後全般に社格は廃止されましたが神代の昔皇祖天照大神岩戸幽居の際諸々の神たち深く憂虚され岩戸神樂を奏し大神をお慰めしようと香山の五百の眞坂樹に天の羽槌雄命の織り成せる倭文(織物の名)など種々の幣を取りそへ調度を整へて捧げ給ふたので大神深くお悦びになり再び世に出て給ひし事から後世織物の祖神として奉祀するようになった神様であります。
当社は織物の祖神のみならず五穀豊穰病難療養商賣繁昌の霊現あらたかな神として古来藩主を初め多くの参拝者の絶えない神社であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



倭文神社

倭文神社の祭神「天羽槌雄神」は、川、田をへだてた向こう村の須代神社の祭神「須勢理媛」と夫婦でありましたが、大国主命の正妃となり、離別してしまいました。
本祭礼の途中、傘鉾が奥山川にさしかかったとき、山屋台、子供屋台とも囃子を止め、「須勢理媛」が休憩をさている松の木に向かって「おーい、おーい、おーい」と三度呼ぶと須勢理媛は天羽槌雄神とともに祭礼に参加をされます。
「おーい」は、大きな力で引き裂かれた、天羽槌雄神の妻を呼び戻す声かもしれません。
近年、倭文神社の祭礼が4月25日から5月4日に変更になり、須代神社の祭礼の日も他の日にかわってしまいましたが、「おーい」の儀式は今も守り続けられています。
梅ヶ谷の代表町主によって、「お〜い、お〜い、お〜い」と3回発声されます。

http://www.geocities.jp/kurahashike_jp/maturi/roman/omaturiroman.htm



倭文神社

當社ハ和銅3子年秋7月丹後國(和銅6年丹後國は設置されし故、丹波國と呼ぶのが正しい)二初メテ綾ヲ織ル國造海部甘愛志命ヲ奉ジテ倭父大神ヲ筬(オサ)村石崎ノ山二齊キ祀ルヲ創立ノ時トス此時以來俗二石崎倭父大明神ト奉稱セリ御祭神ハ羽槌雄命ニシテ上古織物ヲ初メ給シ祖神ヒシテ古事記傳ニモ詳ナリ又別二葉槌ノ神トモ称へ奉レリ當地名モ亦筬(オサ)ガ織物ノ器具ナルコトハ其意深シ又一説ニハ奉勝宝ノ頃當筬村ノ森二鎭座アリシヲ貞応3年ノ頃神託ニヨリ現今ノ地二奉遷スト傳フ現在境内地ニハ倭父族ノ群集古墳アリ又以テ証スルべシ延喜年中醍醐天皇ハ官幣小社二列ジ給ヘヒ年々ノ祭祀モ盛ニシテ天録12年(円融天皇天元4年981年に当る−筆者注)12月、丹後國内式内奉幣ニハ從二位倭父明神トアリ歴代ノ領主ノ崇敬又篤ク奉納奉幣等所願祭典執行セリ當地方ハ殊二其神徳ニヨリ織物産業旺盛トナリ崇敬者トシニ盆シ昭和16年ニハ奉賛會ノ結成トナル明治6年2月村社二列セラレ仝40年3月幣帛供進ノ社二指定サレテ昭和19年11月二府社二昇格ス
其後昭和2年烈震ニヨリ損壞シ復興ノ起工ト共二境内地整理竝二各社殿ヲ建立末社神門社務所等ヲ設営昭和17年完成ス

昭和27年神社明細書



倭文神社

倭文(しどり)神社(延喜式内社) 三河内小字中坪
 天羽槌雄命を祀る。
 「羽は布帛の義。槌は借字にて、ツはノに通う助辞。チは例の尊称なり。天照大神の天岩屋に隠れ給いし時、高皇産霊神の命によって文布(アヤヌノ)を織り作れる神なり。倭文氏は其の後胤とす」(大日本神名辞書)。
 大祭は、旧来、「八朔祭」といい、旧8月1日であったが、現在は、4月25日に行なう。
 また、特殊な祭典もある。各町の屋台が小字上地に集合し、行列が繰り出される。小字中坪の奥山川にかかる橋畔で、その行列が停止し、小字梅谷の大幟組が持っている金色の幣を高く捧げて、東に向い神招きを三度呼ぶ。口碑伝説によると、向いの加悦町明石に鎮座されている須代神社の祭神須勢理妃(歌手)命、その弟倉稲魂命、並びに天太玉命(祭祀)と天明玉命(玉造り)の兄弟が、この招きに応じて三河内に来られ、共同して祭礼を行なうといい伝えられている。境内には、金刀比羅、穴の奥、七社の小祠がある。また、倭文神社には、四基の古墳があり、昭和5年秋に、史蹟保存会が結成された。鎮座地は、「石崎」といわれ、明治維新(神仏分離令公布)までは、石崎大明神と呼ばれていた。
 なお、小字岡田山に高峯、小字梅谷に尾崎荒神、小字奥山に愛宕、小字大道に恵美須、小字森谷に厳島、小字中坪に志布那志、小字奥地に筬岡の各社がある。他に福森に稲荷社がある。

野田川町誌



倭文神社

三河内村字中坪鎭座、指定村社、祭紳羽槌雄之命、当社明細帳によれば天平勝寳の頃筬村の森に鎭座ありて織物を始め玉ひ延喜の頃醍醐帝御信仰あらせられ後貞応対二年今の地に奉遷せしとあるも如何に哉。丹哥府志には石崎大明神と載せて倭文神社と云はず。延喜式に列する倭文神社は丹後旧事記、丹後一覧集、丹哥府志、丹後細見録皆筒川村にありとなす。明治6年2月村社に列せられ明治40年3月1日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。氏子306戸、境内末社金刀比羅、穴之奥、七社の小祠あり拝殿、幣殿、神庫籠舎、社務所等整備せり。祭典5月1日。
 当村小字梅谷に梅谷神社あり無格社にて荒神を祭り他に奥山に愛宕、大道に恵美須、小谷に嚴島、森谷に稻荷、岡山に島峯等の祠あるも何れも無格社にて殆んど荒神を祀る。

与謝郡誌



倭文神社

倭文神社の創建は和銅3年(710)に筬村にある石崎の山に倭文大神が勧請されたのが始まりとされます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されている古社で、天禄12年(981)には従二位に列し、鎌倉時代前期の貞応2年(1223)に現在地に遷座、古くから三河内の産土神として信仰されてきました。境内には石崎古墳と呼ばれる円墳一号(高4m、長径15m)、円墳二号(高2.5m、長径10m)、円墳三号(高2m、長径7m)、前方後円墳(全長60m)の4基の古墳が点在し倭文神社と関係が深いのかも知れません。古くから神仏習合し「石崎大明神」、「石崎倭文大明神」などと呼ばれていましたが 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、社号を「倭文神社」に改称、明治6年(1873)に村社、昭和19年(1944)に府社に列し、明治40年(1907)に幣帛供進神社に指定されています。現在の本殿は文政4年(1821)に建てられたもので一間社、入母屋造、銅板葺、正面1間軒唐破風向拝付、彫刻や組物など繊細で江戸時代後期の神社本殿建築の遺構として貴重なことから平成8年(1996)に京都府指定文化財に指定されています。神門(神社山門)は切妻、桟瓦葺、平入、三間一戸、八脚単層門。拝殿は入母屋、桟瓦葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付。又、境内全体が倭文神社文化財環境保全地区に、三河内曳山祭(毎年5月3・4日)は別称で丹後の祇園祭りとも言われる雅な神事で京都府無形民俗文化財に指定されています。祭りが始まる際には対となる須代神社に向ってオーイ・オーイ・オーイと三回叫ぶ事でも知られ、須代神社の祭神である須勢理媛と倭文神社の祭神である天羽槌雄神が夫婦で、例祭時だけは当社で2神が一緒に過す事が出来るそうです。祭神:天羽槌雄神(織物を始めた祖神、織物の守護神)。

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