宇良神社
うらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】宇良神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】宇良神社
   【住所】京都府与謝郡伊根町本庄浜191
       北緯35度43分44秒  東経135度15分28秒
   【祭神】浦島子 (配祀)月読命 祓戸大神
   【例祭】8月6-7日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天長2年(825)はじめて浦島子を祀る
       弘安3年(1280)8月遷宮
       永正3年(1506)造営
       明治6年2月10日郷社
       明治40年3月1日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 浦嶋神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所・土倉

   【境内社】天照皇大神社・八幡神社・市杵島姫神社・弁財天神社・稲荷神社
   【別当】来迎寺

浦嶋神社と称されている。
淳和天皇の天長2年(825)「浦島太郎」として知られる浦嶋子を筒川大明神として祀る。
付近は古くから水江の里と呼ばれ、浦島ゆかりの地として常世、鞨皷、曾布谷、今田などの多くの史蹟を殘しているといわれる。


由緒

浦嶋神社の栞
浦嶋神社(宇良神社)
浦嶋神社は延喜式神名帳所載によると『宇良神社』と記されている。創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)浦嶋子を筒川大明神として祀る。浦嶋子は日下部首等の祖先に当り日下部については『新撰姓氏録』の和泉皇別の条に「日下部、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とみえる。彦坐命は開化天皇の後裔氏族である。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主である。浦嶋子は人皇21代雄略天皇の御宇22年(478)7月7日に美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有余年を経て53代淳和天皇の天長2年(825)に帰って来た。常世の国に住んでいた年数は347年間で淳和天皇はこの話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁は勅使として、勅宣をのべたうえ小野篁は勅命をうけたまわって宮殿を御造営し、ここに筒川大明神が鎮座されたのである。
この神社に伝わる浦嶋物語は起源が最も古く、すでに八世紀にできた丹後風土記・日本書記・万葉集などに記載されている。このような浦嶋子の伝説は、その後長く伝えられ『本朝神仙伝』や『扶桑略記』の雄略天皇記等、平安時代の文献にも収められている。又、この神社に伝わるものとして『浦嶋子口伝記』『續浦嶋子伝記』があり『續浦嶋子伝記』の巻首には「承平2年(932)壬辰4月22日甲戌、於勘解由曹局江之、坂上家高明耳」伝記と漢詞との間に「干時延喜20年庚辰臈一作8月朔日也」、巻末に、「永仁2年甲午8月24日、於丹州筒河庄福田村宝蓮寺如法道場、依難背芳命、不顧筆跡狼藉、馳紫毫了、」とある。これは、延喜20年(920)の制作で、承平2年(932)に注を付したこと、さらに、永仁2年(1294)に浦嶋子物語の発祥の地丹後国筒河庄の福田村にある宝蓮寺如法道場で書写した本が底本に用いられていることが判る。この永仁2年書写本は現存している。これらの古伝説は近世のお伽草紙の浦嶋太郎の物語とは様相を異にしている。又、古代より浦嶋神社に対して崇敬の念は厚く誠に顕著なものがある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



浦嶋子

浦嶋子の伝説  時は人皇21代雄略天皇の御代22年7月7日、当地の漁師浦嶋子(うらのしまこ)は沖に出て釣りをしていましたが、不思議なことに三日三晩一匹の魚も釣れませんでした。諦めて帰ろうと竿を上げるとそこに五色の大きな亀が現れました。  亀を眺めるうちに眠りについてしまった浦嶋子が目覚めると、亀は美しい乙姫の姿に変わっていました。二人は常世の国(龍宮城)へ赴き楽しい日々を過ごしましたが、里心のついた浦嶋子は33代淳和天皇の御代になって故郷に還って来ました。  常世の国へ赴いてから347年が経過していました。

由緒書



蓬山の庭

蓬山の庭
嶋子が神女に誘われて水之江里より海の彼方の蓬山に渡る物語を、丹後国風土記逸文は次のように記している。
「その地は玉を敷けるが如く 闕壹奄映しく樓壹玲瓏けり目にも見ざりし所 耳にも聞かざりし所なり」云々
これは「とこよ」の有様を記したものだが、その他に「蓬山」「神仙」「仙都」と書いて「とこよ」と読ませ、日本書紀、浦嶋口伝説では「蓬莱山」を「とこよ」、万葉集では「常世」を「とこよ」としている。
これは、古代中国の神仙思想の影響を強く受けたものであり、この庭はこれら文献及び浦嶋明神絵巻(重文)にもとづいてつくられた。

社頭掲示板



力石

力石の事
山口暉堂談
1.浦嶋神社に在る円石の少し欠けたる方が八斗ダメ也。重さ32貫(110kg)、円い方八斗五升也。
昔此力石を上げたる人々。本庄浜の森下弥七(元治の頃)一日山に藤葛一荷をとり来たり、それを背負いつつ、この欠けたる方の石を肩の処までさし上げたりといふ。
2。森下仲右衛門も中々に力強の人也。これも容易く肩に上げて、十町(1000m)ほども歩みたりといふ。
3.八助の力持。この人短小なり。長四尺八寸(145cm)位にて中々に元気ありし由。一日此の大石をもちて肩の処にて力あまりて即ち後へ落したりといふ。
過ぎたるは及ばざる事。後人八助の力持とてはなしの種にいたしたりとそ。
(浦嶋風土記より)

社頭掲示板



浦嶋神社

[由緒]
浦嶋神社は延喜式神名帳所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されており、 創祀年代は淳和天皇の天長2(825)年浦嶋子を筒川大明神として祀る。浦嶋子は日下部首等の祖先に当る。 日下部については『新撰姓氏録』の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とみえる。 彦坐命は開化天皇(紀元前157〜98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、 その大祖は月讀命の子孫で当地の領主である。
[社殿]
本殿 神明造 社殿は本殿、拝殿、中殿で構成されている。本殿は茅葺の神明造、拝殿は権現造となっており、 平成25(2013)年11月15日に社殿全体が国の登録有形文化財に指定されている。
拝殿正面の彫刻は江戸時代に活躍した丹波国(現在の兵庫県柏原市)の中井權次氏の作となっている。

公式HP



浦嶋神社

浦嶋神社の創建は天長2年(825)、筒川大明神(浦島太郎=浦嶋子)を祀ったのが始まりと伝えられています。浦嶋子は日下部首等の祖とされる人物で雄略天皇22年(478)に大亀を助けると、亀は美しい女性に姿を変え、浦嶋子と夫婦になります。夫妻は数年常世で暮らし、戻ってみると数百年の月日が流れたといわれています(逆算すると347年)。この話を聞いた淳和天皇は浦嶋子を神格化し筒川大明神として社殿を造営したとされます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社「宇良神社」とされ浦嶋子の故事は「日本書紀」や「丹後国風土記」、「万葉集」にも記されています。社宝の紙本著色浦嶋明神縁起(室町時代)と刺繍桐桜土筆文肩裾小袖(安土桃山時代)が国指定重要文化財に指定されています。

伊根町観光・旅行見所



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