野田川の右岸、岬状になった尾根の先端に鎮座している。 |
多田神社 石川村堂谷小字多由山鎮座、村社、祭神素盞嗚命、往昔廣峯牛頭天王を祀りしも維新の改廃今の名に改む。蓋し多田は多由の誤字にて延喜式多由神社なりとの説あり殊に社地を多由山と云ひ旧宮津藩主本庄侯の揮毫に多由神社とあり一考に値す。氏子二十五戸例祭同上。 此他小字寺坂、同田中、奥山の浪江に孰れも無格社稻荷神社あり小字榎木谷及ぴ休場に無格社愛宕神社あう。向小字打野に無格社金刀比羅神社あり。 与謝郡誌 |
多田神社 祭神 素盞嗚命。 出雲国の簸川上に至って、八岐大蛇を斬り、大山積命の孫稲田姫命と婚し、出雲国須賀の地に宮を興した。ついで、子の大屋昆古命(五十猛命)と共に新羅国に渡り、曽尸茂梨(そしもり)の地に住み、帰るときに、樹木、樹種を携えて植林の道を教えた。娘に大屋津姫命があり、樹種を国中に分布した。朝鮮語で「曽尸」は牛、「茂梨」は頭の音であるので、その地は江原道春川府牛頭州といわれる。また、明治維新まで牛頭天王が祀られていたことも、故あるという。神社名を俗に天王様と呼ぶ。 大祭は、旧8月18日に行なったが、現在は、4月25日に、宮津市分宮神社(和貴宮と改称)社司により祭礼が行なわれている。当社は多由山に鎮座し、神宮寺保管の文書にも、丹後国石川には多田社はなく多由社があると書かれ、祭礼のときの楽屋台につるす提灯、神社の幕などにも多由山とある点から多由神社が正しいといわれる。明治6年多田一族の氏神として「多田神社」と改号することを当該官庁に上申した。 社宝として、十二天画像(十二幅)がある。氏子は約26といわれ、江戸時代に万人講を組織して祭祀を盛大にしたことがあった。境内に稲荷狭田毘古の祠がある。 野田川町誌 |