現宮津市字小田の富久能神社とする説がある。 |
冨久能神社 村社 冨久能神社 丹後国与謝都小田村字宮ノ下275・276番地 一、祭神 不詳(天吹男之命カ) 一、由緒 勧請年記不詳、明治6年2月10日旧豊岡県ヨリ村社被列 式内布甲神社ト古老ノロ碑ニ云伝フ 一、境内 3036坪 一、境内一社 日吉神社 一、祭神 大山咋神(命) 二、由緒 不詳 一、 氏子戸数 58戸 明治17年5月12日 神主 牧 正就 総代 宮本宇平治 宮本安左衛門 沖上多七 戸長 粉川市右衛門 一、参考 抑、布甲トハ如何ナル意義力卜云フニ、布甲神社ノ祭神ハ「天吹男命」卜称スル神ニシテ「吹男」ヲ「布甲」卜訓ミテ社名トナシ、社名ハ即チ山名卜ナレルモノナリ。而シテ天吹男命ハ如何ナル神ニ座スカト云へハ、本名ハ「大直毘命」卜申シ、此ハ福ヲ直サント欲スル御霊ニヨリテ成座シ、天照大神ノ和御霊神ナリト神代系ニ見ヱタリ。此神社ヲ中古仏教ノ盛大ニ他ニ移シ、之ニ代フルニ普賢菩薩ヲ安置シ、普賢徳卜大直毘神ノ神徳トハ符合セル所アルヲ以テ大直毘神即チ普賢菩薩ナリト唱へシモノゝ如シト云フ。暫ク記シテ参考トス。 小田村進達係社寺取調 |
布甲神社 普甲山付近に存在したらしく、近世の地誌類にも普甲山に存在したとしているが、残念ながら跡地は不明である。 普甲山には、成相寺とならんで市内の重要な山岳寺院である普甲寺が存在した。普甲寺は、平安時代創建と伝える山岳寺院で、『沙石集』の迎講の説話(177)の舞台と考えられているが、安土桃山時代に火災にあったとされ、現在は普賢堂、弁財天の小祠、若干の礎石、経塚が存在するにすぎない。 また、この式内社を字小田小字宮ノ谷の富久能神社(日吉神社)に比定する考えもある。この神社はかって妙見大明神と呼ばれており、現在の本殿は天保12年(1841)の建立である。 ただ、普甲山付近に式内社が存在したことは、厳しい山道である普甲峠越(現在の宮津市と大江町あるいは舞鶴市を結ぶ山道)が、古代にさかのぼる理由の一つとなるのである。 宮津市史 |
富久能神社 富久能神社 −延喜式内布甲神社か− 村役場に立寄って布甲神社の所在を聞いて徒うこと僅かで宮津御城下一里塚に達し亜で小田に入ると金山というがある。昔金鉱が出た処だとかで、ツイ近年も採掘を試みたものがあったとの話、村外れに老樹欝蒼神々とした鎮守の森があり、社頭の華表に富久能神社と扁額が懸っている。延喜式布甲神社蓋し是れではないか、抑も与謝郡内延喜式内社で今所在の判明せぬもの吾野神社、阿知江神社、布甲神社の三つある。其他にも疑わしいものは二三ないでもないが、如上の三社は先ず所在不明と謂って差支ない。丹哥府志、丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録、みな普甲山にありと見えて居れども、広い普甲山の何処の辺に祭ったかが分らぬ。 所が栗田博士の神祇志料に「布甲神社小田村富久にあり、富久能神社と云う。即ち是也」と見えている。何は兎もあれ、鼻を掠めて崎だつ急峻な石段を攀じ登って神前に額いた。醍醐天皇延喜以来一千有余年祭祀に渝りのない神社であるか何うか。遽かに分られが、宮殿の階上に安置してある石獅子一対優に鎌倉時代か遅くも南北朝は降るまい。恭しく内陣を拝するに槙木の御神像、これ又同時代と見るべきか、世にも有難い御姿と拝察せられた。 足利時代幾回となく戦乱の為めに踏み荒された此の土地に於て猶斯かる貴き御姿を汚さずに保存することを得たのは神慮のまします処であろうが、実際涙ぐましき迄に崇厳の気に打たれた。郡内でも最近多由神社の公認された実例もあれば、当社式内社として公認せらるる可能性を帯びて居ることも、全然否定すべきものでない。今の社殿は天保12年4月再建の由であるが、向拝の竜の彫刻と象頭獅首(釈迦三尊の徴象)は何うしても当時のものと見えね。恐らく戦国以前の遺物であろう。境域の森厳と相俟って床しく感じた。 橋立新聞(大正14年8月15日) |