布甲神社旧地【布甲寺跡】
ふこうじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】布甲神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】布甲神社旧地【布甲寺跡】
   【住所】京都府宮津市字小田
       北緯35度28分21秒,東経135度10分14秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】
       

   【境内社】

普甲寺は宮津市の普甲峠より1.5Kmばかり南東にある平安時代創建と伝える大寺院である。今は弁天堂と普賢堂が建ち、普賢堂の前には仁王門の礎石が残っている。布甲神社はこの地に鎮座していた。普甲寺は元亀2年(1571)普甲寺は織田信長によって焼失滅亡した。布甲神社もこのとき滅亡したと思われる。


普甲寺

普甲山 府城南二里 属二與謝郡一
 貝原氏諸州巡に北向嶺と記す、拠あるにや。又延喜式神名帳に當国與謝郡に布甲神社と云ふをのせたり、此社今さだかならす、若此辺に在て山の名によりて社を名付しにや、神名によりて山を呼しか。又当山に古へ普甲寺とて大刹有り、それゆへ山をも普甲と名付けしと云説も見へたり。京極公入国の砌不幸の音を諱て千歳嶺と改べしと令ありしとかや、坂路嶮岨にして要害堅固なり、府城の雄鎮といふべし。
 橋立記曰。此山は大山といふ名所なり、帝都より山南の麓内宮まで廿四里、それより嶺まで二里、此間に二瀬川あり、左の方に干丈ケ獄、鬼ケ窟あり、見下山嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あり、是れ普賢の道場にして開山は棄世上人といふ、今辻堂のやうなる普賢堂あり、荊棘生ひて路も絶へ尋る人もまれなり。凡山間に三所茶屋あり、京極安知公族客の爲に置所なり、麓の左に宮津より一里の碑あり、是まで山路嶮岨なり。沙石集に丹後国普甲寺と云所に昔上人ありと云云。
 ○普甲寺は古へ大伽藍之地と云傳へし事也、凡一山百ヶ寺と申事也、応仁元年之頃より数度の大乱ニ而焼失則応仁3年4月1日丹後一色義直殿若州武田殿内逸見殿合戦、明応7年5月27−29日丹州殿若狭殿合戦、永正3年7月晦日丹州義有殿若州元信殿合戦、4年6月27日丹州義有殿若州方葛西殿合戦、天文16年2月6日丹州義幸殿若州元光殿合戦、11年2月又々丹州殿若州殿合戦数度戦乱ニ而堂塔悉皆焼失、今残り有所ハ普賢堂弁天堂、二王門の屋輔跡とて残りあり並ニ道筋ハ数多あり(中略)普甲寺繁昌の時参詣並ニ貢米を運送すと云、今に町ぐい有之長五尺余の石碑はゞ壹尺二寸あつき四寸と申事也(取意)。
(宇平註)右記事金剛心院本中の一本朱書により増補した。これは同寺二十六世興応法印の筆写に係り、法印は金剛心院深聴法印の高資で維新当初上宮津淵龍山法光寺に住し普賢堂(旧普甲寺)を管した人であるから特にこの註記を朱書したるものであらう。後ち金剛心院に帰り師の後を襲ふた。従ってこの筆写本も金剛心院に遺ったもので参考までに書いたけれども録上本には此の記事はない。

宮津府志




布甲神社

普甲山付近に存在したらしく、近世の地誌類にも普甲山に存在したとしているが、残念ながら跡地は不明である。
 普甲山には、成相寺とならんで市内の重要な山岳寺院である普甲寺が存在した。普甲寺は、平安時代創建と伝える山岳寺院で、『沙石集』の迎講の説話(177)の舞台と考えられているが、安土桃山時代に火災にあったとされ、現在は普賢堂、弁財天の小祠、若干の礎石、経塚が存在するにすぎない。
 また、この式内社を字小田小字宮ノ谷の富久能神社(日吉神社)に比定する考えもある。この神社はかって妙見大明神と呼ばれており、現在の本殿は天保12年(1841)の建立である。
 ただ、普甲山付近に式内社が存在したことは、厳しい山道である普甲峠越(現在の宮津市と大江町あるいは舞鶴市を結ぶ山道)が、古代にさかのぼる理由の一つとなるのである。

宮津市史



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