須代神社
すしろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須代神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】須代神社
   【住所】京都府与謝郡与謝野町明石599
       北緯35度30分57秒  東経135度6分49秒
   【祭神】須勢理姫命 天明玉命 天太玉命 倉稻魂命
   【例祭】4月25日 春季例祭 9月23日 秋季例祭
   【社格】
   【由緒】元慶4年(880)10月13日従五位下「三代実録」
       寛保3年(1743)8月今の地に幸遷再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】元鹿之谷に鎮座
        寛保3年(1743)8月今の地に幸遷再建

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

この地より2町ほど北の鹿之谷に鎮座していた。
明治26年10月13日須代神社の背後の丘陵中腹から須代銅鐸が発見された。銅鐸は弥生時代中期につくられ、高さ50cm、表面には流文水が飾られて美しい緑色をしている。昭和9年9月1日に国の重要美術品に指定された。


須代神社

須代神社
彫刻 木造神像 男神像三躯・女神像一躯
30〜45cm 鎌倉時代
須代神社は、平安時代中頃10世紀に成立した延喜式神名帳に社名が記載されている歴史の古い神社である。
本神社の男女神像はともに虫害が著しく面相も定かでない。男神像のうち二躯は衣冠束帯姿のもので、一躯は手に笏をもつ姿に彫られている。四躯とも桧を用いた一本造りの小像で、同じ頃に制作されたものであろう。
彫刻 木造狛犬 一躯
像高 43cm 鎌倉時代
狛犬は大きく虫に食われ、面相を知ることはできない。製作は桧を用いた一木造りで、神像と同じ材、よく似た作風を示していることから同じ時代に造られたものと思われる。
※衣冠束帯 宮中の行事に着る正服

社頭掲示板



須代銅鐸

須代銅鐸出土地
須代銅鐸は明治26年(1893)10月13日、大雨の後、須代神社の裏山の丘陵南斜面が崩れた場所より露出した状態で発見された。 出土した銅鐸は表面に流水文様がある「扁平紐式」と呼ばれるもので、高さ45cmをはかる。
一般的に銅鐸は収穫の豊作をいのり、幕らしの繁栄を願うまつりに使ったものと考えられている。須代銅鐸出土地の前面には弥生時代中期から始まる須代遺跡があり、この遺跡はこれまでの調査からムラのまわりに幅5mの溝をめぐらす巨大な環濠集落とみられる。
おそらく、この銅鐸も須代ムラが所有していたものと考えられる。また、出土地には銅鐸出土地を示す標柱が立てられている。なお、銅鐸は京都国立博物館で保管されている。
平成6年3月 加悦町教育委員会

社頭掲示板



須代神社

須代神社  明石小字宮ノ越
 須勢理姫命、天明王命、天太玉命、倉稲魂命を祭る。当社は昔坂代神社と称したといい伝えている。
 延喜式内須代神社は、二町ばかり北の鹿の谷という所に鎮座していたのに、この社を須代神社と称するに至ったのは、合祀の結果とも思われる。しかし、その時代は定かでない。
『三代実録』に880年(元慶4年〉10月13日丹後国正六位上坂代神社に従五位下を賜うとある。
 祭神須勢理姫命は素戔鳴命の子で、大己貴命の妃であり、天明玉命は玉造りの祖で、大己貴命に奉仕、天太玉命は祭祀を司り、倉稲魂命は五穀の神で、須勢理姫の兄に当る。
1743年(寛保3年)癸亥、8月再建。
1873年(明治6年)2月豊岡県から村社に指定された。
1893年(明治26年)境内拡張工事中神殿の南方から流水文様の銅鐸が出土した。
この付近一帯は古代人が生活していたらしく、古墳も多く、住居跡があり、弥生式土器も多く出土している。
1923年(大正12年)8月本殿、拝殿を再建した。
旧暦1月5日には「茗荷祭」と称し、境内の茗荷の芽のはえ方によって、当年の稲作について、その品種の選定と豊作を祈る祭典が行われる。

加悦町誌



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