『女布史』によれば、「天武天皇ノ朝朱鳥元年(686)、丹後國加佐郡二天之日原大科度美命ヲ祀ル」とあり、「又天平年中、僧行基金峰山二菩提寺ヲ建立シ山頂二素盞鳴命多紀理比売命大年命ヲ合祀シ牛頭天皇ト称へ奥院二天之御中主命ヲ祀り禰布ノ神ト云フ」とある。 |
日原神社 日原神社は一説に「田辺朝代町 朝代大明神伊奘諾命」(丹後旧事記)とするが、これは誤りと思われる。祭神は天日腹大科度美神(丹後国加佐郡女布村日原神社御旅所略縁起)とも、日臣命とも伝えられる。大科度美神は大国主命の裔、若昼女神を母神としている(古事記)。因みにヒルメ・ミヌメなどは太陽母神に仕える巫女的性格がつよく(折口信夫全集・二巻)、その子科度美神は祓に関与する神名でないかと考えられる。また日臣命は「高志連。高魂命の九世の孫、日臣命の後なり」(『姓氏録』右京神別上)あるいは「高志壬生連。日臣命の七世の孫、室屋の大連の後なり」(同)とあり、壬生の名は古代信仰上きわめて重要である。所在地の女布は熊野郡久美浜町に同じ地名があり、式内社の売女神社がある。更に竹野郡網野町にも同名の神社があり、ここは旧和田上野村字女布谷である。この地方ではヒメフ・メブなどと呼称するが、この売女の神の系統は山陰道に点在する。本市の女布がメブ・ミブ・ニフ・ニュウなどの転訛ならば、日の神に仕える”水の神”(折口信夫全集・二巻他)として注目され、日原神社もこれと無関係ではないと思われる。 舞鶴市史 |
日原神社 女布の産土神、延喜式内日原神社は、朱鳥元年(686)に祭祀されたと伝えられているが、白鳳年間(650-680)天武天皇のころに既に九社明神の神事が行われたともいうから、あるいはそれ以前に祭祀されていたのではないか、とも思われる。 祭神は天日腹大科度美神(丹後国加佐郡女布村日原神社御旅所略縁起)とも、日臣命とも伝えられる。天日腹大科度美神は大国主神の裔、若昼女神を母神とする、日臣命は高魂命の裔として大伴氏の遠祖であると(舞鶴市史より)。 日臣命は神武御東征の砌り、先陣を承り、熊野より大和へ入り給う時、八咫烏の先導で道を開き進まれて大いに功労あり、神武天皇より賞され、道臣命と改めよと仰せられたという(日本書紀より)。 日原神社について主なる事項(女布史) 延長五年(927)式内社として延喜神名帳に記載される。 寛文年中(1670年ころ)田辺藩主牧野因幡守富成公願主となり再建、あるいは延宝2年(1674)再建ともいう。 宝暦元年(1751)氏神号を日原大明神と申す。 安政5年(1858)本殿の上屋を新築する。 文久元年(1862)仁和寺総法務宮より御染筆「日原宮」の御額面を御下賜される。 明治6年(1873)当勝神社を境内に祭祀する。 明治13年(1880)篭屋(舞堂)を新築する。 明治32年(1899)石段を新築する。 明治34年(1901)石灯篭笠石を今田青谷石と取り替える。 明治44年(1911)本殿を後へ寄せ、敷地を前へ広げて拝殿を新築。 昭和6年石鳥居を嵯峨根熊蔵が奉納。 昭和26年本殿屋根を檜皮にて葺き替える。 昭和41年小宮四社を一棟に建て替え祭祀する。 昭和43年村尾安亮の奉納により本殿の屋根がトタン葺となる。 (境内社) 稲荷神社 大川神社 水無月神社 当勝神社 神社来歴書 一、日原神社 延喜式内(加佐郡十一社之一) 鎮座 丹後国加佐郡高野村大字女布小字日原 祭神 日臣大神 社格 村社 氏子人数 三百余 右社霊額文久元年4月仁和寺総法務宮御染筆 日原宮ノ御額面御下賜相成候処維新の際宮号ヲ取止ニ相成 神社号となる仍テ本額不用ト相成候 一、金峰神社 鎮座 丹後国加佐郡高野村大字女布小字桂ケ谷 祭神 素盞男命 右社創立以来祀事天平年間行基菩薩牛頭天王ヲ勧請ス自来時の領主ヨリ天王領米下賜候処維新ニ付無額トナル信徒申合セ万人ノ講社尊崇シテ当社維持致居候b 右之通御座候 京都府加佐郡高野村字女布 日原神社氏子総代 兼 森脇治平 印 金峰神社信徒総代 明治21年2月 ふるさと女布 |