笶原神社
えばらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】笶原神社 丹後国 加佐郡鎮座

   【現社名】笶原神社
   【住所】京都府舞鶴市紺屋29
       北緯35度26分53秒  東経135度19分25秒
   【祭神】豊受大神 月夜見神
   【例祭】6月15日 例祭
   【社格】無格社
   【由緒】天平勝宝元年(749)頃創設
       慶長5年(1600)11月14日造営
       寛文年間(1661−73)以降は全く衰微

   【関係氏族】海部・凡海連
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明宮」と称していた
   【社殿】本殿銅葺
       拝殿・土藏

   【境内社】

笶は笑ではない。
古く高い由緒を有し、戦国期細川氏の信奉を受け、城下の崇敬を受けた大社であつたものが、牧野氏が入国した寛文期以降は全く衰微したと伝えられる。また当社は元伊勢とされ、伊勢神宮の故地とされている。


笑原神社

笶原神社
社格、無格社
祭神 天照大神 豊受大神 月夜見神
由緒
当神社は延喜式神名帳所載の神社であってその創立年月日は明かでないけれども歴朝の御崇敬深く霊験顕著なること慶長年間領主細川家御再建棟札標文に詳である寛文年間領主牧野家入国以前は地方民崇敬深く大社の古跡であったが漸く世の変遷につれて頽廃衰微し僅かに小社を存するばかりとなった然し古来の余風を残して朝代神社と同様其の祭典には各字総代等祭場に参列して神饌料を供え神事終了後直会の儀式を行うのを例としたけれども明治維新に際し両社とも其の祭事中絶したのである其の今に存続しているのは例祭の当夜谷口各町各字から境内に神灯を奉って尊崇の誠意を表し稍往昔の遺風を伝えて居る

社頭掲示板



笶原神社

天平勝宝元年頃に創設されたと伝えられる古社。祭神は、天照皇大神、豊受姫神、月夜見神。
合殿に清和天皇、宇多天皇が祀ってあり、かっては魚居社(まないのやしろ)とも呼ばれ、古代海部(あまべ)や、凡海連に関わりをもつ。

社頭掲示板



笶原神社

笶原神社も所在地に異説がある。その一つが野原の天満神社である。祭神は菅原道真であるが、「延喜式」成立時に道真は神として祀られていない。この天満神社については「旧語集」に天満宮(野原村の項)の名が見える。今日では天神は一般に菅公を指すが、本来的にし”天の神”であったと考えられ、人格神として固有の名を持たなかったが、特に室町期ごろから道真信仰と習合して信仰の昂揚が見られ、全国各地に天神講などが生れた。天神を祀る習俗は東・西大浦半島地区にも多く、これらは明治に入って天満神社(佐波賀,田井)北野神社(千歳)など社号としたが、すべて祭神の天神を菅公に系譜を求めたものである。
 野原が式内社の所在地であるとする説(神道道志流倍・大原美能理)は、野原の地名を重視して、現在のよみのノハラではなくて古くはヤハラであったとする。「特選神名帳」も字訓を重視して、鎮座地を野原と比定している。
 もう一つの鎮座地説は、紺屋の笶原神社であるが、「旧事記」は神明宮と記し、現在も”神明さん”の呼称が根強く残っている。神明宮もまた全国的に分布しているが、元来は伊勢神宮の神領(御厨)に創建されたものである。ただ、当市には御厨が存在した確証がないから、御厨内の神社ではない。伊勢神宮の一般庶民への信仰流布は、中世以降御師の活動に負う場合が多く、御師は在地と師檀関係を結び信仰、文化の流布に努め、彼らの働きによって神明宮の創建を見た事例も多い。紺屋の神明宮は、「旧語集」によれば、元山伏の住寺で、のち清水姓の巫女の構えとなり、氏神朝代神社等の祭礼に奉仕している。諸国を巡る山伏は近世に入って定住化が進み、在地の巫女と結婚する例も多く、この神明宮も同様の経緯があったかも知れない。
 第三の異説は、与保呂の日尾神社を比定する。この神社は「笶原神社は今池姫大明神と称す」(『丹哥府志』・上与保呂村)を指す

舞鶴市史



笶原神社

丹後州神座郡田辺城外之西嶺有笑原神宮焉豊受太神神幸之古跡而所謂為真名井原與佐宮二處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉崇神天皇即位三十九壬戌歳使豊鋤入姫命遷天照大神草薙剱月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎮其御霊代又遷與佐郡九志渡島以奉齋此時始百與佐郡名焉夫当宮之有霊験者著于世也因記其一二以示於後世社記曰文武天皇慶雲三丙午歳夏久旱魃不降一露尋有災火而山悉焚爲之萬氏無所置手足也於是勅阿倍朝臣眞君副使中臣朝臣人足等被進種種神実幣帛於当宮雷聲忽応而火災自滅矣高岳親王詣当宮依神託清光殿于宮地逐奉戒言以自慎矣花山帝患無于被祈於当宮即有感応而清仁親王生後醍醜天皇祈於当宮被免蝮蛇之患那高親王亦祈此神御悩忽被平癒此以下世世蒙神明之威徳者不可勝数歴帝崇此神之徳数進幣帛被修理宝殿雖然星移物代而雨露疵其橘清宮既古矣于時慶長近年秋八月石田三成方人小野木重勝方囲当城之時父藤孝詠一昔歌以奉于此神而後爲籠城矣歌云天照神之御座郡奈禮婆振毛能乎屋良比賜辺庸即有感応而大神夢中以長歌託智仁親王轍奏之天子天子大鷲直乃勅烏丸光広卿西三条実条卿加茂松下大宮司等下綸命於小野木因之小野本等速解囲而退矣是故父出戦苦得平治一国也是非我徳也正神明之妙助也益尊敬其神徳自奉幣帛填配吾姓祖清和天皇之霊為寄附神領九町七反百九十歩者也又宮地山林自西馬谷之尾崎接円隆寺之境南至桂林寺之境分地各正而寄附者如先規茲新営治宝殿命神主海部直正之令祷当城鎮護国家安全五穀成就武運長久府惟神明霊徳尚垂神愍敬白    慶長五年庚子冬十一月十四日
     再建願主当國城主  細川越中守源忠興 謹誌

細川忠興再建棟札



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