阿良須神社
あらすじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿良須神社 丹後国 加佐郡鎮座

   【現社名】阿良須神社
   【住所】京都府舞鶴市小倉13
       北緯35度28分50秒  東経135度25分50秒
   【祭神】豊受大神 (配祀)迩迩芸命 天児屋根命 天太玉命
   【例祭】10月最終日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】崇神天皇10年丹波道主命白香森に勅祀
       白鳳10年(682)春部連青雲別命が柳原に奉祀
       天長6年(829)高岡親王參拝
       貞元期(976−78)藤原保昌により加佐一宮とされる
       慶長5年(1600)兵火で社殿焼失
       慶長5年9月細川忠興柳原より遷祀
       明暦4年(1658)京極高直社殿寄進
       明治元年小倉神社と改称
       明治4年村社
       明治14年一宮神社と改称
       明治36年8月6日阿良須神社と改名
       明治40年神饌幣帛料供進指定
       昭和9年9月29日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】崇神天皇10年丹波道主命白香森に勅祀
        白鳳10年(682)春部連青雲別命が柳原に遷祀
        慶長5年9月細川忠興柳原より現在地に遷祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「春日部一宮」「一宮大明神」「大森明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拜殿・社務所

   【境内社】神明神社・二柱神社

崇神天皇10年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠という兇賊を征伐し給う時豊受大神を神奈備の浅香の森にお祭りされたのを創祀とする。
白鳳期に「豐受皇阿良須神社」として創祀され、爾来、春日部一宮、一宮大明神、大森明神、小倉神社、一宮神社等を経て、明治36年以来阿良須神社となつている。


由緒

由緒
当社は崇神天皇の御代(前97〜前30)四道将軍の一人丹波道主王が青葉山の凶賊蜘蛛征伐に当たり豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りしたのを創祀とする。
白鳳10年9月3日柳原の地に社殿を造営し、同11年越前阿良須波の里に忍び給う高市皇子の社参をみた。
かってこの地は日下村と云い、後に春日部村と称するようになった。
吉野朝以降領主の尊崇篤く、観応元年政所より神田5段、寛正3年にも代官より神田1段が寄進された。
慶長5年、丹波福知山の城主小野木某の兵火に罹り社殿悉く消失し、翌年領主細川忠興が現在の布留山の地に遷宮した。
現在の本殿は一間社流造・銅板茸、文化12年の再建になる。旧郷社で府登録文化財等の古文書を有す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



阿良須神社

御祭神 豊受大神
当社は崇神天皇10年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠という兇賊を征伐し給う時豊受大神を神奈備の浅香の森にお祭りされたのを創祀とする。
降りて天武天皇白鳳10年9月3日柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す遡りて元年大友皇子の御謀反の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下静謐を大神に祈り御歌を詠し給う。
  曇る世に柳ヶ原をなかむれは
   神の恵みや晴るる朝霧
  風来ぬる青葉の山の煙りたへ
   行き先遠き雲の上かな
御染筆奉納ありたり爾来朝家の御崇敬厚く殊に延暦24年正一位を賜る堀河院御子無きをうれいて当宮に祈願を寄せ給いしに感応ありて宗仁親王誕生あらせられければ寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる御筆は羽林飛鳥卿の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊なる神徳を現し給うと云う。貞元年中当国に叛賊起こり国内乱れし時藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す観応元年3月15日神田5反政所尭基寛正3年神田一反代官河島主計充秀寄進す。而して慶長5年9月7日兵災に罹りて本殿、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。
翌3年9月23日細川忠興社を布留山の地へ遷す。即ち今の社地なり。
その後、明暦四年三月二十四日、文政十二年六月三日 両度本殿を改築す。
(例祭) 9月3日が古例なれど現在は10月末の日曜日
(式年行事) 御屋根洗式十ケ年 近年行われず
(所有文書) 南北朝室町時代文書十三通(一巻)一宮大明神縁起(一巻)同造立願文(一巻)大般若経(一巻)を蔵し大般若経を除き京都府登録文化財並びに舞鶴市指定文化財である。  宮司 森本太郎夫
「阿良須神社の境内社」
●神明神社 祭日 9月3日
      御祭神 天照皇大御神
      配神 金刀比羅大神・北野天満大神
  崇神天皇39年3月、天照皇大神が田庭吉佐宮に移り給いし時、この神山に一夜に雪が二丈八尺も積もった。この時西面の北の方から大御神の御来足のしるしがあった。(建久3年壬子11月15日の古記にある由)境内摂社として最も崇められてきた。阿良須神社の御屋根洗い式年遷座の権殿に充てる。
●二柱神社 祭日 9月3日
      御祭神 天児屋根命 誉田別尊
  春日大神、神護景雲2年に鹿島神が奈良に遷られ、その後当地が春日社の神領になったので、地主神として春日大神の分霊を奉祀したものらしく思われる。春日大社々家の造宮預り殖栗(シグリ)秀行が御伴をして当地春部の里に来たり御料地を預って専ら神祭と営繕に奉仕したという。八幡神は建久年中、頼朝将軍の時代に奉祀、応仁の乱後二神を合祀し中世より二柱神社と唱えた。
●桜王神社 祭日 7月7日 社無石畳
      後祭神 桜大刀自命
  桜王大明神と祀る神である。慶長5年9月7日の火災に因り神山へ遷座の時は石畳を構へ神霊を遷し奉る。
姫桜  白鳳11年秋7月7日夕、高市皇子が柳原宮に神楽を奏せしめられた時、庭上の老桜の梢に天女が舞い降り、恰も春3月のごとき花が艶然として咲いた。皇子は天下の瑞祥と喜びその古い桜のことを天女に因み姫桜と仰せられた。
桜大刀自命とは、さの姫桜の御神体を云うのである、という。且って、阿良須神社の摂末社は境内外併せて三十六社も在ったと云う。慶長5年焼失後その社名、御神名も大半は不詳となる。

社頭掲示板



阿良須神社

社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受皇大神宮なり、神名帳に所謂阿良須神社是なり、今正一位一宮大明神と称す、天智天皇白鳳10年辛未の秋9月3日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、
曇る世に柳の原を眺むれは  神の恵やはるる朝霧
風きぬに青葉の山の烟たへ  行く先き遠き雲の上かな
 愚按ずるに、皇子は天武天皇の皇子なり、天皇に従ふて大友の帝を攻む。始め天智天皇10年の9月秋の頃より天皇予まず、10月17日天皇の病益甚し、よって大海人皇子(天皇の皇弟也)に勅して後事を托す、皇子蘇我安麻呂の言を用ひ固辞して僧となり吉野の山に入る、時の人龍に翼を授くといふ、於是大友皇子を立てて太子とす、12月3日天皇志賀の都に崩ず年46、翌年の夏6月大海人皇子果して吉野に叛す(日本紀に大海人皇子反すといず、日本史に初めて其是非を正し大海人皇子吉野に反すといふ)、大友天皇防戦して力を尽すといへども遂に利あらず、7月23日粟津の山前に崩ず(国史略に云、皇子自縊し薨年35)。先是京狩田辺小隅夜半に枚を?みて大海人皇子の将田中足麻呂を襲ふて大に倉歴の営を破り遂に進みて刺荻野の営を襲ふ今社記に高市皇子故ありて丹波に遁るといふ正史に之を載せずといへども恐らくは此時ならん。延暦24年初階正一位に進む、天正の頃兵火の為に焚失して冨山天皇の社に合せ奉ると云。

丹哥府志



阿良須神社

一、神社所在地 京都府加佐郡志楽村大字小倉小字フル宮鎮座
二、社格神社名 村社 阿良須神社
三、祭神
     豊受大神   一座
     相殿神  迩迩杵命 天児屋根命 天太玉命   三座
四、由緒
創立年代不詳と雖も古老神話伝説曰神代の昔大己貴命少彦名命国造座の時此春日部里柳の原は木根樹立険しき深山たりければ谿間々の沼地より昼夜霧立罩めて晴明の時なく名にし負ふ霧の海の凄まじさ言はかりなかりき神話によれば地主神を覓めしと産霊二柱神琴浦浜に遊幸座し時冨士の高根より天降り座す木花開耶姫命産霊二柱大神の御前に参り会給ひて茲に年久敷住せ給ひて浅からさりける契を結びて地主神咲耶姫は豊受大神三女神等を斎祀りて此地を領有し顕見蒼生の為に雲霧を攘ひ山川海原を現して御田を作り蚕を飼ひ皇大神に瑞穂を捧げ神衣を織り奉り茲に生民に耕転種芸の道を教へ以て五穀の稲実及桑薬草の種実を植て百姓の作らぬ物は草の片葉を百の災を攘ひ退けて其秋の八径穂の初穂を以て美善醸酒の法術を授け以て人身を養ひ病苦を救ひ寿命長延を守り子なき人の血統相続を願ひ亦安産を守り給ひし其神恩を辱なみて後を里人の桜丘に花の宮居ほ築き立てはらから五人の神の異霊を迎へ鎮め仰ぎ祀りて茲に蒼生の衣食の道をも開き給ひぬ。
斯して崇神天皇即位10年秋9月丹波国青葉山中に土蜘陸耳の御笠匹女等多くの群盗を集めて其党徒を率ひて海川を渡り山野を越へ人民の財宝を掠め婦女子を奪ひ良民を苦しめる、■に人跡と絶へ五穀実らず菜果熟せず此時国司此状を瑞籬宮に奏し給へば天皇深く是を聞召て道主王に詔曰く教へ受さる者あらは兵を挙て之を伐て印綬を授く汝怠勿れの詔勅奉したる将軍丹波道主王山陰に出て丹波国造倭得玉を引率し先づ神明に御加護を祈契し神の誨へに随ひ王子国家鎮護の神として神並大森の浄き美しき地に宮地を建て笠津毘古笠津姫命をして神霊を鎮め祀り給ひき最も尊むへき敬ひ祀るへき御神にそましましき。
寛文11年3月日社記曰降て浄御原帝白鳳10年巳年春北国大震山崩川湧出諸官社御庫神社城閣村里民家破壊し人畜多く死す此時青葉山四方に崩壊し其麓に座す一宮たいしん鎮り座す神並大森の神域も遂に湧出流失の奇禍に逢ひたりき同年秋春部の里長大神の御鎮座の霊跡を覓め奉らんとする丹忠を受給ひて咲耶姫里長の女水長姫の夢に誨へ宣曰く朝暉刺夕陽の照る浄き美き柳原の桧尾は無双の可美地なり妾上古大己貴命少彦名命国造座の当初より宿契の霊地たるを以て神霊長く茲に止るへしと茲に於て里長は御教に随ひ桧尾を万代の大宮処と斎ひ定めて宮殿は神なからの形にならひて同年秋9月3日水長姫をして五柱の神霊を移し鎮め即ち春部村の氏神豊受皇阿良須神社と崇め敬ひ祀りき。
同11年大友皇子御謀叛を企て給ひし時越しの国あさはの里に忍ひ給ふ高市皇子は当国に下り給ひて7月7日柳原の宮に御幸遊はされて良久しく社内を覧はして一首の御歌を詠給ふ
 曇る世に柳の原を詠むれば 神の恵みや晴る朝霧
此時忽ち宮居の上に天つ乙女五人の髣髴として現れける東の方に向ひ給ひて並ひ舞ひ皇子独り能く之を視る従者見へず
  風来ぬる青葉の山のけふりたへ 行先遠き雲の上かな
右の御歌皇子御自筆にて御奉納ありける其後ち桓武天皇延暦24年正一位の御位に進め奉る此時禰宜祝別当職置かれてより神威益々高く霊徳愈々顕れたれ天長年間高岳親王国家安泰を祈り河原山麓に精舎殿を建て其巽を鎮するあり寛治元年羽林家飛鳥井卿の御筆になれる正一位一宮大明神の御額字賜ふあり弘安4年蒙古来冦の国難に際し閏7月朔日内陣鳴動すること二時間神霊加護の示現あり、上下の信仰大に加り神儀の御稜威天下に輝きたりき
観応応永永享文安長禄寛正大明の数度は公方政所は代官河島主計充安秀に命して進営を司とり国家安泰の為め日供の御饌田及夏田法楽田等数々の寄進され亦禰宜祝別当職講師坊座衆等をして専ら神祭を掌とらしめ給ひき然る処に慶長5年8月福知山城主小野木縫殿助細川忠興留守、城包囲せし時一宮神社神職等は小野木悪意に背く依と彼の党等社内へ乱入し神殿幣帛拝殿舞殿中門御料屋神庫并に上古伝来の宝物古記録年中行事録等兵焚に罹りて焼亡散失の奇禍に逢ひたりき茲に於て大主細川少将越中守源忠興の君関ケ原の戦ひ勝利帰陣するや郡奉行に令して御前神山の御旅所の地を祓浄めて大宮処と祝ひ定めて春部村の正税を充て仮宮を造営し同年秋長月望日禰宜祝をして神霊を移し奉られたり夫より56年の後ち明暦4年2月3日起首領主京極飛騨守高直君普請奉行を山木兵左衛門尉に亦巧匠棟梁は河崎又右衛門藤原宗体に命し前例により春部村の正税を充て同年3月24日本殿其他悉皆改造御奉納ありて茲に慶長の原形の復したり爾後幾多の遷変を経たると霊光遠近照被し威徳万世に普及するの神譜を重ぬ明治4年7月4日村社列格明治40年3月1日幣帛供進及会計法適用指定
五、社殿
   本社  文政12年6月吉日造設
   拝殿  享和元年6月26日造設
   社務所 大正2年7月炉以下造設
六、史蹟名勝天然記念物に指定されたるもの  該当事項無し
七、国宝及鑑定状附付件名          該当事項無し
八、例祭及特別由緒ある祭日
   例祭日9月3日白鳳10年9月3日氏神柳の原へ御遷座祝日たりと
   特別由緒祭日7月7日白鳳11年7月7日高市皇子御参拝の御儀あり
九、特種なる神事
   9月3日午前10時舞殿上三日前より浄火勤めたる女子五人稚児天冠舞衣装束仕立各祭神に神酒三献奉進す次寿き詞白す次東遊の舞儀あり
   4月3日此田遊祭神事は年内の五穀成就を祈念せむための神事にして古へより行はれたるものなり先つ女子五人男子及楽人等舞殿上に昇りて共々御田植式の行事あるなるき
   7月6日宵宮祭氏子内婦女子等神庭に集りて新葉付青竹を数々立て其枝毎に五色紙を品々の形に切りきさみて古歌或は新歌をしるし亦網形を切りきざみて釣りて時々の品物及百花と共に天の棚機姫の神に手向しるの儀なりとの古式たるなりき
十、摂末社及境内神社名
  神明神社
  二柱神社

神社明細帳



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