阿良須神社
あらすじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿良須神社 丹後国 加佐郡鎮座

   【現社名】阿良須神社
   【住所】京都府福知山市大江町北有路461
       北緯35度23分44秒  東経135度10分15秒
   【祭神】神吾田津姫
   【例祭】10月18日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創祀の年やその他の由緒は不明

   【関係氏族】
   【鎮座地】本殿はかっては現境内のやや下にあったという

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝段・籠屋

   【境内社】金比羅・稻荷・若宮・秋葉

「安産の社と里人云うに、阿良須は令生(アラス)、生れ益すの義か」とある。社名より郷名「有路(アリジ)」となり、そこの総鎮守となつたとする。


阿良須神社

阿良須神社は町内唯一の式内社である。(丹後風土記残欠)には、天火明命(海人族の祖神)が飢えてこの地に来たとき、この土地の神に助けられ、この土神に蟻道彦大食持命という称号を与えたとのべられている。尚、この地にある神祠が蟻巣と言われ、転訛して阿良須なったと記されている。
祭神は、神吾田津媛命であるが、別名木花咲耶媛の名の方が有名である。この神は、日本神話によると、邇々杵尊が高千穂峰に天下ったとき、最初に出会った絶世の美人で山の神を代表する大山祇神の娘である。のち邇々杵尊の妃となり、火照命や火遠理命を生んだ女神である。(丹後国式内社取調書)には、阿良須神社は(安産の神)と記され、古来(子宝・安産・女性の守護神)として崇敬されている。

社頭掲示板



阿良須神社

町内における唯一の延喜式内社であり、祭神は神吾田津姫命(別名・木花開耶姫)である。付近には古墳跡もあり、境内からは須恵器も出土し、前面の水田には条里制遺構も確認され、古い由緒を裏付けている。この阿良須神社のある有路地区には四つの十倉神社があって、いずれも神吾田津姫を祭神とし、十倉五社と呼んでいる。
大江町で式内社とされるのは、北有路の阿良須神社一社である。前記の加佐郡誌には次のように記されている。
(中略)
前述したように、式内社阿良須神社については、舞鶴市小倉の阿良須神社がそれではないかという説がある。この小倉の阿良須神社も由緒のある神社で、地域の尊崇厚く、藤原保昌が国司となったとき社殿を造営したと伝えるし、慶長年間には田辺の領主細川忠興が社殿を造営したという記録も残る。しかし、こうした由緒ある神社と争って、明治初年の京都府の調査の結果、北有路の阿良須神社が式内社と認定されていることは注目すべきことで、小倉の阿良須神社が古くは一ノ宮又は大森宮と称し、阿良須の名を称したのが新しかったことが、北有路説の決め手となったのではないかと思われる。
ところで阿良須神社の祭神である神吾田津姫は、別名である木花開耶姫の名で知られ、山をつかさどる大山祇神の娘とされ、日本神話の中にある物語−瓊々杵尊が高千穂峰へ降臨したとき、大山祇神が二人の娘、岩のように頑丈だが醜い磐長姫と木の花のように美しい木花開耶姫をその妃にすすめたが、醜かった磐長姫をかえし、木花開耶姫だけを妃としたので、人間の寿命が限りあるものになったという物語の主人公となっている神である。こうした他愛もない物語はともかくとして、日本神話に登場する神々のうち、天孫降臨以前からこの土地にあった土着の神々とされる国つ神の系譜に属する木花開耶姫をまつる神社が、阿良須神社そして十倉神社(有路上下地区に四社あり)と有路に集中していることは興味深い。
この阿良須神社の鎮座する有路は非常に古い伝承をもち、「丹後風土記」残缺には次のような記述がある。
これによると、有路の地名の由来は、「大昔天火明命(丹後国に降臨した神とされ海部氏の始祖といわれる神)が飢えてこの地に来た時、蟻のつらなりゆくのをたどって穴巣国の土神のところへ行き、食物を請うたところ、土神は喜んでもてなした。そこで天火明命はこれを賞し、この土神に蟻道彦大食持命という称号を与えた。そこでこの地を蟻道というようになった。また、ここには神祠があり蟻巣という。いま阿良須というのは訛りである」というもので、この蟻道が有道を経て現在の有路となったものと考えられる。現在、ただ一つ完存する「出雲風土記」に記載されている神社数と、「延喜式」に記載されている出雲国の神社数を比較すると、ほぼ同数であるところから、「風土記」の時代から「延喜式」の時代までの約200年間の神社数はほとんど変わらないといわれている。このことからみると、「丹後風土記」に記された蟻巣の神祠が、「延喜式」に記された阿良須神社である可能性は大きいわけで、阿良須神社有路説の一つの根拠となるものであろう。この阿良須神社の前面に、「大坪」「宮の坪」「井戸前」などと呼ばれる田があるが、前節で述べてあるようにここから条里制遺構の存在が確認された。すぐ近くの高川原遺跡から住居跡を含んで弥生式土器片、須恵器片多数が出土していることと相まって、有路が早くから開けていたことが証明され、式内社がまつられるにふさわしい条件を整えていたと思われる。

大江町誌



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