大川神社
おおかわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大川神社(名神大) 丹後国 加佐郡鎮座

   【現社名】大川神社
   【住所】京都府舞鶴市大川169-1
       北緯35度26分53秒、東経135度15分29秒
   【祭神】保食神 (配祀)句句廼馳神 軻遇突智神 埴山姫神 金山彦神 罔象女神
   【例祭】4月23日 春季例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】顕宗天皇元年(485)4月23日鎮祭
       天武天皇元年(676)勅使奉幤
       持統天皇7年7月(693)「祈雨の政」
       貞観元年(859)従五位上
       貞観13年11月11日正五位下
       元治元年(1864)造営
       明治5年郷社 大正8年府社

   【関係氏族】
   【鎮座地】創建以來、鎮座地を移つた記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大河大明神」「正一位五社大明神」「大川五社大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       絵馬殿・中門・神饌所・拝殿・神門・手水舍・社務所・神馬所・神樂殿

   【境内社】

顕宗天皇の元年3月に、由良川域の漁師野々四郎が漁を営んでいたところに、『金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神』が川下から現れて、野々四郎に「当地に鎮座したいので社殿を造営せよ」と託宣したのが大川神社の起こりと伝わっている。


由緒

大川神社御由緒
当神社の開創は、5世紀末の顕宗天皇元年(485)4月23日、宮柱を立て鎮祭したところから始まったとされています。その後天武天皇元年(676)には勅使をもって幤帛が捧げられ、さらに持統天皇7年7月(693)には「祈雨の政」が行われたことを伝えています。平安朝に入ると、貞観元年(859)には神位の昇進があり、10世紀には延喜式内社名神大社に列し、丹後国の著名な古社であります。
下って明治5年郷社となり、大正8年府社になり、大川大明神と尊称されて来ました。主神は保食神・相殿には句々廼馳神(木神)・軻遇実智神(火神)・埴山姫神(土神)・金山彦神(金神)・罔象女神(水神)の五元神が祭祀されています。例祭は4月23日、大祭は11月3日で御輿渡御、氏子から種々の奉納行事があり、伝説も数多く、什物として室町時代「享徳二年(1453)」の銘がある特異な形の鎌鑓があります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



大川神社

開創は五世紀末(顕宗天皇元年(485)4月23日)宮柱を立て鎮際したところから始まったとされます。その後、天武天皇5年(676)には勅使を以て幣帛が捧げられ、更に持統天皇7年7月(693)には「祈雨の政」が行われたと伝えています。
平安期にはいると貞観元年(859)には神位の昇進がり、10世紀には延喜式内社名神大社に列し、丹後国きっての著名な古社であります。
下って明治5年郷社になり大正8年府社になり、大川明神と尊称されてきました。主神は保食神、相殿に句句廼馳神(木神)軻遇突智神(火神)埴山姫神(土神)金山彦神(金神)罔象女神(水神)の五元神が祭祀されています。
例祭は4月23日、大祭は11月3日で御輿度御、種々の奉納行事があり伝説も数多く、什物として室町時代「享徳二年(1453)」の銘がある特異な形の鎌鑓があります。

社頭掲示板



大川神社

【大川神社】(延喜式)
大川神社は今正一位五社大明神と称す、豊受持命を祭る也。末社五座野々宮、日の宮、加持宮、荒神宮、薬師堂なり。貞観元年己卯正月27日大川の神階従五位下より従五位上に叙せらる。
天正府志曰。人皇廿四代顕宗皇帝3年神託ありて由良の海上小島より遷し祭る、風土記に、与謝海上に陰陽の二島あり雄島雌島といふ、伊奘諾尊荒波大神といふ島の主を誅伐し給ふ、依て伊奘諾尊を島に祭る、即ち是なりと云。由良の湊に野々四郎といふものあり舟を浮べて釣を垂る、此夜風括にして波平なり、俄に海面光発し灼々然として昼よりも明なり、乍と異人を見る、白衣を衣て金色の鮭魚にのり、左に蟹を携へ右に五穀の種を持ち、野々四郎に謂て曰く「吾は扶桑上古の神なり、今大川の里に至らんと欲す、汝之を審に村人に告げ速に神篭を結ぶべし」と宜給ふ、事は顕宗帝の元年3月23日に在り。翌歳正月28日大川村の人八歳の童子に又神託あり、前年野々四郎に告げ給ふ處の如し、是歳3月23日神廟造営の勅あり蓋両度の神託上聞に達するなり、又岡田の庄に於て神田若干を賜ふ、仝年9月23日爰に勧請して大川明神と称す、今に於て正月28日、3月23日、9月23日一年に三度祭を設く蓋之が為なり、三河、桑飼の二村より以北五十余村皆大川明神の氏子なり。
 愚按ずるに、是歳神階天一位に叙せらるといふは審ならず、恐らくは年暦を誤るならん。社内に御駒といふものあり一尺余りもある石の駒犬なり、其数幾何ある事をしらず、凡疫癘痘瘡などの流行或は狐狸の類祟をなす時、處々に御駒をかりる(御初穂銀十二匁或は廿四匁、各其次第あり)極て霊験あり、土人の説に、大川大明神は猿の神なり其氏子の地に於て狼の害することなし、又其御駒をかりる時は必狼其郷に来りて妖怪を防ぐといふ、往々其言を試るに誣ふべからざることあるに似たり。
家集  四方の海かくこそあらめ大雲川  ひと日の浪の立時そなき  (匡陽)

丹哥府志



大川神社

由良川筋(加佐)の大川に鎮座する大川神社は、「延喜式」において名神大の待遇をうけた。名神大とは国家の臨時祭の一つである名神祭に「あしぎぬ五尺、綿一屯、絲一く、五色薄あしぎぬ一尺、木綿二両、麻五両…」(延喜式・巻三)などの頒幣にあずかる神社をいい、全国二百八十五座、丹後国では七社が該当し、加佐郡では大川神社のみであった。よく世間にいう大明神の尊称は、この名神祭の頒幣にあずかる神々を指すことから始まったとされる。また同社は貞観元年(859)に従五位上、同13年(871)に正五位下に神階が進められた(三代実録)。舞鶴地方一帯の神社境内には大川社の社額を掲げた境内社を見かけるが、この神の信仰の広がりを窺うことができる。
 祭神は保食神(丹後田辺府志)、豊受持命(丹哥府志)、稲倉豊宇気持命(丹後旧事記)、五元神などと称し、他に大川大明神、正一位五社大明神(丹哥府志)、天一大川五社大明神(旧語集)ともいうが、明治政府編集の「特選神名牒」は祭神欄を空白にしている。社名や祭神は一社の長い歴史の推移によって、しばしば変化する例が多いから、大川神社の場合もそれが考えられないわけではない。しかし神名の変化はあっても、主として農耕に関する神であると思われる。同社の創建について近世の地方誌に引用の縁起を要約すると「顕宗天皇の元年3月に由良の漁師野々四郎に、金色の鮭に乗り五穀と桑蚕の種を持つ神が垂迹して、大川の地に鎮座したい旨の託宣があって、9月に社殿を造営した」のが始まりであると伝承されている。伝承の信憑性はしばらくおくとして、この縁起が説く祭神像は、明らかに農耕神であるが、おそらく、祭神は創建初期には人格神としての固有の名を持たなかったと考えられる。また魚類の背に乗って神が垂迹する型は他にも類例が多い。この伝承は承保元年(1074)に旭翁なる人物が採録したとされるが、伝承内容は〃大川の神〃の信仰宣場に大きな役割を果たしたと思われる。また同社の至近地点に古墳があり注目される。

舞鶴市史



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