高田神社
たかだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高田神社 丹後国 加佐郡鎮座

   【現社名】高田神社
   【住所】京都府舞鶴市上安899
       北緯35度27分8秒、東経135度20分58秒
   【祭神】建田皆神 天鈿女神
   【例祭】8月6日 夏祭 10月17日 例祭
   【社格】
   【由緒】安康天皇御宇億計王・弘計王潜住の時に崇敬
       延宝年間(1673−81)伊佐津川の氾濫で堂社流出
       寛保年間(1740−44)再建
       明治37年6月線路附設のため現在地移転
       昭和41年社殿修理


   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は旧上安区域杭ケ坪の辺
        延宝年間(1673−81)伊佐津川の氾濫で堂社流出
        上安村、みせんが谷に移
        その後現在の地に遷
        明治37年6月線路附設のため現在地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿・什器庫・社務所兼籠堂

   【境内社】

大内郷時代の本社殿は「宮知里」と呼ばれる大木、老松のあつた所で、現在の倉谷地区と上安地区が境を接する旧上安区域杭ケ坪の辺であると云われている。次いで、徳川時代延宝年間(1673−81)、伊佐津川の氾濫により堂社流出後、上安村、みせんが谷に移り、以前よりこの地で祀られていた鈴木神社と同座奉齊される。更に社殿老朽のため現在地に新殿を設け、この際高迫山頂に鎭座する武揚権現を招遷し、高田大明神を主神として三体同座奉齊せられることとなる。


高田神社

祭神 建田背神  天細女神
当社は元大内郷に鎮座ましまし丹波国造の祭り給いし御社なり。
安康天皇の御宇億計王弘計王この国に忍び給いし時御崇敬ありしと伝う。降りて慶長の代田辺城主京極高知公伊佐津川の瀬替をなし、現状の如くなせし為その後堂社流失の災に遭い給う。この時上安の某大洪水を予知して御神体を負い奉り「みせんが谷」に遷し奉りしより永く上安に御鎮座の事となりぬ。
大内郷本社の跡は字宮知里とて慶応の頃まで大木老松がありしが同2年8月暴風洪水のため跡を止めず。
現社殿は寛保年間に再建せしものなり。

社頭掲示板



高田神社

式内高田神社 祭神 建田背命 (祭 旧7月6日) 同市字上安
往古より大内八ケ庄の宮と唱える。旧地は上安(杭ケ坪)上安久(田中田)倉谷(杭ケ坪)三村の合接する所に位し三村の氏神であったと云はれるが徳川中期伊佐津川決壊の節殿社流失により取敢ず上安のミセ谷に遷座したが、其後上安仲イサキに社殿新建立なり現在に到った。
宮知里は伊佐津川鉄橋約百米東方でいまは鉄道敷になっている。上安・上安久境界野道を南行し鉄道に当る所
祭神建田背命は尾張海部の長で天火明命六世の孫に当り、神服連海部直丹波国造但馬国造等の祖とある。
武と建は同義で旧代武神の称。田背タセは長谷ハセ・古瀬コセ・見瀬ミセ等大和地方の地名で大和葛木郡尾張地方で出生地の名を負はれた尊名と睹らる。丹後地方に来られてからの本地は丹後諸旧記も語るとおり、現熊野郡久美浜町字海士で同祭神を祀る式内矢田神社や付近に宮殿跡と伝承ある所も在る。本地も古代海辺との証もあり、高田神社旧地も古代貝殻等出土や地名遺称等で海辺と睹られる。
なお現在建田背神と併座の鈴木神社は天細女命でこれは上安生へぬきの地主神で素は小字宮谷に鎮座したが新社造営の節高田神社に併座された。天細女命は人口に膾炙する天照岩戸隠れの節の花形役者であったが、続いて天孫降臨の下りでは神格一変し怪神猿田彦将軍と堂々外交接渉して懐柔した男勝りの女神である。斎部の猿女君の祖とある。鈴木の語源は略す。
上安村氏神棟札

舞鶴市内神社資料集



高田神社

国鉄舞鶴線天台踏切から西へ約一キロ、すぐ社の裏を通りながら、その存在に気がつかなかったが、延喜式神名帳に「加佐郡高田神社」とある由緒正しい神社である。祭神は建田背命(たけだせのみこと)。丹波国造(くにのみやつこ)海部直(あまべのあたい)の祖神で、京都府北部支配者の先祖。古代には大内郷宮知里(現在の国鉄米田川鉄橋の南付近の小字杭ケ坪)にあったが、江戸中期、伊佐津川の洪水で流されたとき、御神体だけは村人が背負って、現在の社の南にあるミセンが谷に遷し、その付近にあった鈴木神社(祭神は天細女命)といっしょにまつった。さらにその後、高迫山頂の武場権現(大山祗神)もまつり、三神同座となった。御神像は高さ六三センチの白木一木のナタ彫りで、藤原後期の作とみられる。

舞鶴 ふるさとのやしろ



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