倭文神社
しどりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 丹後国 加佐郡鎮座

   【現社名】倭文神社
   【住所】京都府舞鶴市今田1010
       北緯35度24分54秒、東経135度20分25秒
   【祭神】天羽槌命
   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】
   【由緒】正暦3年(992)再建
       その後の由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「志島大明神」「子鳥大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿・籠堂・社務所・手水社・馬屋

   【境内社】池姫神社・稻荷神社・金比羅神社・秋葉神社
        大川神社・澤神社・八幡神社


正暦3年(992)藤原朝臣平井保昌が丹後国大江山の鬼退治に際して誓願するところがあり、その成就の御礼として、神社を再建した。


倭文神社

倭文神社秋季例大祭 舞鶴市今田の倭文(しどり)神社で、サトイモの茎の「ずいき」で屋根をふき、野菜や穀物、豆、花(カボチャ・唐辛子・米・粟・小豆・黒豆・菊など) など25類の作物で飾った「ずいき神輿」が61年ぶりに復活され、平成9年10月19日の秋季例大祭に奉納された。
倭文(しどり)神社は、今田・堀・池ノ内下地区の氏神。1936年までは5年に一度、氏子の手作りの神輿を奉納していたが、第二次大戦や戦後の混乱、食料難などで風習が廃れ、半世紀以上にわたって中断していた。
実際にずいき神輿を作った経験のある氏子は残っておらず、写真などの記録も見つからなかったため、京都市の北野天満宮や京田辺市の棚倉孫神社に伝わる「ずいき神輿」などを参考に復活されたもの。
本格的な作業は平成9年9月からとりかかり、屋根は長さ1.2mのずいきを重ねてふき、神輿の周囲は和紙に小豆や黒豆、粟、米などを使って描いた「金太郎」「市松人形」「マツに夫婦鶴」「ヤナギに跳び付くカエル」を張りつけ、屋根からはトウガラシやマメを組み合わせたすだれを飾った。屋根の上には、稲穂の尾を付けた鳳凰が乗っており、高さ2.8mの立派な神輿。

http://www.dance.ne.jp/~hayasida/sidori.htm



倭文神社

式内 倭文神社 祭神 天羽槌雄命  (祭 旧8月17日) 同市字今田小字津ノ上
この神は天照大神、岩戸隠れの時一役買った神とも云はれる。委文連之祖
古来より倭文八社明神と唱え高田神社とともに大内郷の惣鎮守であった。御神体は元来白幣竹に二本串 脇立木造男神像二体であったが今は木造を本体とする旨。藤原期の秀作と云はれる。
境内は、形状察するに前方後円墳を取崩しその後円部に神殿を造営したのではないかと考えられる。
当社はその昔丹後国司臼井(或平井)保昌大江山の鬼賊調伏の祈願あり、頼光一行討伐成就の晩即ち正暦三年社領三十石寄進と伝う。
ちなみに、「東寺百合文書」によると当時大内郷は平厚正の私領で、正暦元年3月この大内郷地券(今の権利書)盗難に遭ひ、八方官に陳情の結果、翌2年に再下附があった旨記している。
これに関しては当郷惣鎮守にも願望成就の祈願があったものと思はれ、当然神徳奉謝の礼があって然るべきと存ぜられるが如何か。
大江山の方はいまは王朝時代の頼光威徳物語とされている。
話戻して祭神名儀は、天は美称、羽は長白羽ノ羽と同じく布帛をいい、槌は助詞の「ツ」、「チ」は霊又は長の意で、天孫族の布帛織族の長官との名であろう。
「神譜
  丹後国伽佐郡大内縣今田邑神社
    委文神社 加佐郡十一里 大一坐 小十坐
    天羽槌雄命也  倭文連祖
 天羽槌雄神ヲシテ天ノ文布ヲ織ラシム、倭ハ青筋ノ文有布ヲ云仍
   倭文大明神 鎮座
   八幡宮   鎮守別社
      右
  正暦三年正遷宮
    社領附三拾石 田置者也
        平井某謹勧請
  祭祀9月9日 重陽 神輿七社蒙の給」
(注)但し八幡宮は細川忠興公豊前小倉に移封の節供奉され後は小祠を祀ったとある。

神社旧辞録



倭文神社

倭文神社は舞鶴市の南部、池内川を遡った中流域・今田に鎮座する加佐郡式内社の1つ。祭神は天羽槌雄命。
氏子圏は古くは池内谷各村のほか七日市、倉谷、福来、天台、上安久、上安、近郷一六カ村に及んでいたと伝えられ、旧語集では一〇カ村(今田・万願寺・堀・布教・別所・岸谷・上根・寺田・白滝・池内下)と記す。なお同書に「右之村ヨリ毎年振物笹躍狂言ヲ勤」とある。
しかし現在の氏子は三字の区域と狭くなっている。
藤原期作と伝える男神像二体、室町末期の「蒲生八幡宮」と陰刻されている鰐口を所蔵する。
由緒創立年代は不詳なれども一条天皇の御宇正暦2年藤原朝臣平井保昌丹後国大江山鬼退治に際して誓願する所があって再建したと伝えられている。旧社領30石は平井保昌の寄進したものであったが、其後漸次減少して元禄16年の頃には社領は全く其影を存せない様になったと云ふことである。

加佐郡誌



倭文神社の由来

当神社の祭神は「天羽槌雄神」で織物の神様として、平安時代延長5年(927)の神名帳に記載されている延喜式内社であり、創立は、それより相当古くから当地に鎮座されていたと考えられます。
現在の本殿は、天保5年(1834)「一間社流造」の形式で舞殿は、安政6年(1859)に改築されたもので華美な装飾が特徴的である近世後期、田辺藩の神社建築様式の流れをくむ貴重な文化財です。当神社の保有する鎌倉時代の男神坐像一体、室町時代の神像、狛犬4体は、平成6年に市の指定文化財に指定されています。また、指定はされていませんが室町中期の作と考えられる鰐口は、表面外区に「蒲生八幡宮」の刻銘があり、簡素ながら作は良いものです。他に天然石を使い天保時代に造られた4mを超える大燈籠は、舞鶴では類のない大きく、立派な形をしており、裏面には「明治12年から同13年に流行ったコレラ病が無くなるように祈願した」と文字が刻まれており、歴史上からも一見する価値はあります。
また伝説によれば、一条天皇正慶元年(990)3月21日源頼光が大江山の鬼退治に出陣の途中、当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています。「大江町史」より。
後、正暦3年(992)藤原朝臣、平井保昌が鬼退治に際し、誓願するために再建したとも伝えられています。旧社領三十石は、平井保昌の寄進したものであったがその後暫時減少して元禄16年(1703)の頃には全くその影が無くなりました。「加佐郡誌」より。
当社は、織物の祖神のみならず五穀豊穣、無病息災、商売繁盛の霊験あらたかな神として古来藩主を始め、多くの参拝者の絶えない神社であります。
平成20年5月吉日 社務所

社頭掲示板



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