私部は律令制時代に、皇后のために置かれた部民で、この地はは古代の皇室領であった。 古代は私部郷の氏神で中世まで大田部荘の川北・戸田・石原・上・前田・土師を含む七ケ村の郷社であつたが、応仁・文明の乱後神社は焼かれ、社領は没収されて衰えた。 |
佐須我神社 由緒 何鹿郡延喜式内十二座その一として、太古は天田郡雀部庄川北村、戸田村、石原村、土村、前田村、土師村及び私市村の七ヶ村の郷社にして参拝常に絶えず。しかるに応仁年間国家相乱の為、地頭の変遷年に改まり、社領没収、神官も絶家し、神庫等灰儘に帰す。依て古書伝記等なく唯口碑の存するのみ。 祭日 往古より陰暦九月十日をもって祭典式を挙行す。行事は村吏奉幣使として参内、神饌料を供進す。 神興の渡御は同神社内休憩所までで、摂社八幡神駄及び鳴神天神籔神鉾と共に佐須我神裡に渡御せり。茲において神饌を御供、祝詞を奏上し、玉串を奉納す。而して摂社八幡神社へ神幸あり、直に還幸ありて式を了る。 往時は前記七ヶ村と共に、同日鳴神天神社に集合して大祭典を執行したりしに、何れの噴からか不明なるも之を廃せり。その年代詳かならず。しかし今尚旧跡を存するもの、同社の鋳に大馬場、馬出し、的場、燈明田等歴然として小字名が残っている。祭日を太陽暦に改むとある。 福知山史 |