高倉神社
たかくらじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】高藏神社 丹波国 何鹿郡鎮座

   【現社名】高倉神社
   【住所】京都府綾部市高倉町奥路45
       北緯35度19分51秒,東経135度16分40秒
   【祭神】以仁王
   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】
   【由緒】養和元年9月9日創建
       元文年間神殿挙げて回録に罹
       延享3年造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】皇大神宮・八坂神社・金比羅神社・稲荷神社・天満宮・十二士神社

当社を式内高藏神社に比定する説がある。
何鹿郡吉美郷高倉村の高倉神社は字も異なるし、中世以來以仁王を祭神としてゐるので全く別である。「式内社調査報告」


由緒

高倉神社は、後白河天皇の皇子高倉宮以仁王を祭神とす。平安時代の末期、平清盛を始め、平氏の一族は、朝廷に対し横暴と不敬の限りをつくしはばからず、この専横を見るにしのびず源三位頼政は以仁王の令旨を奉じ、治承四年勤皇の兵を挙げたが、莵道の激戦に宮方の軍に利あらず、頼政宇治平等院で戦死。この時、以仁王流矢に当たり、薨去と偽り近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士を従え、頼政の領地丹波に落ち延びる。 由良川白瀬を渡り吉美郷里村までお着きになったが御矢疵重く、治承4年5月9日この地で薨去。養和元年9月9日神霊をこの地高倉の森に遷し、高倉天一大明神として奉祀す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




高倉神社由縁略記

治承年間、平清盛横暴を極め壇に朝権を寿し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て、孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は、父君を幽閉より救い、更に皇室の隆盛を挽回せんと、源三位頼政に令旨を下し賜ふ。頼政奉じて勤王の兵をあげ、治承の難に至る。
逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院で自刃。宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流れ矢に当たり、薨御と偽り、実は近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し、宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸当地に御着馬の頃から、御矢傷次第に重く、治承4年6月9日吉美郷里村で薨御し給ふ。
翌養和元年9月9日神霊を奥谷の森合の高倉に(現在地)奉遷し、高倉天一大明神と勧請せり、 尓来御神徳は四方に輝き、世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く、腹痛救護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。
降って元文年間神殿挙げて回録に罹り、旧記神宝悉く鳥有に帰したが、御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。神殿の再建は延享3年に落成したが、建設以来星霜を閲し、再び廃頽に傾き、明治40年再建を計画、同43年8月竣工、旧神殿は拝殿に改造し、新たに神殿竝びに透塀を造営、神域も拡張した。更に昭和53年奉紀八百年を記念し、宮の遺徳を追慕顕彰せん為、拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子竝びに十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得て、昭和55年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された。
高倉神社社務所

社頭掲示板



高倉神社のヒヤソ踊

天一さんとよばれる高倉神社は、養和元年(1181)高倉以仁王(もちひとおう)をまつった古社である。祭礼は吉美地区六町の総社として、10月10日に行われ、高倉町の本社から里町の御旅所へ神輿の行列があり、ヒヤソ踊りは、この祭礼に奉納される田楽である。
この田楽は、中世に始まると思われ、昭和51年綾部市指定文化財に指定されている。
平成6年3月
綾部市教育委員会

社頭掲示板



五葉の笹の由来

高倉神社の御祭神、以仁王は、治承4年(1180)6月吉美郷里へ辿りつかれましたが、矢傷が悪化して十二士や里人の介護もむなしく崩御されました。
 以仁王は矢傷の腹痛の激しさの中で「私が他界したら、この様な腹痛の苦しみを後世の万民が味わう事のないよう救い守護しよう」と仰せられました。
人間の身体内の大切な臓器を五蔵(心、肺、肝、脾、腎)といいます。笹の中にはこの五蔵を活性化させる成分を多量に含んでいます。健康飲料としてお茶代わりに用いる人もあります。
又、以仁王を奉じた源氏の紋は、笹りんどうで五葉の笹を紋にしていますが、五葉の笹は、ちょうど手の指を広げた形になります。
境内には昔から美しい大きな笹がたくさん生育していました。人々はこの中から五葉の葉をつけた笹を探し出して、以仁王の優しい掌として家に持ち帰り、守護を頂いて居ります。
少しでも多くの人が、お陰を頂かれますことを願っております。
  高倉神社社務所

社頭掲示板



高倉神社

時は12世紀後半、平安時代末期、1世紀も続いた摂関政治は終わり、院政が始まって上皇が法皇として院庁で政務を執られるようになりました。
 その時代は世はまさに平家全盛の時代で、平清盛は当時すでに太政大臣の職を辞していたが、その専横ぶりはますます激しいものになり、治承3年(1179)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、翌4年は倉天皇(以仁王の弟)を退位に追い込み、平家ゆかりの安徳天皇を即位させました。
 そのように世の中は、日に日に拡大する平家の横暴が眼に余るほどになりました。
 その頃、源氏の有力者源三位頼政は平家一族のあまりにも皇室をないがしろにする挙動に見かね、後白河天皇の第2皇子として将来を期待されていた以仁王を担いで兵を挙げる計画を立て、それに呼応した以仁王は諸国に令旨を発信され、頼政を中心として平家打倒の戦を仕掛けられました。
 しかし、戦は以仁王に利あらず、宇治にて敗戦、頼政は平等院で自刃し、以仁王は南都へ落ち延びられる途中に、光明寺下で流れ矢にあたり逝去したと偽り、実は大槻光頼、渡邊俊久等十二士とひそかに頼政の領地丹波路に落ち延びられました。そして当地吉美郷里(現在の里宮倉神社)にお着きになりました。 里人たちは尊い王のお姿を拝し、笛・太鼓で田楽踊りを舞い、今も伝わる「ひやそ踊り」で王を慰めました。
 しかし、以仁王の矢傷は次第に悪化し、治承4年6月9日「後世、庶民の腹痛の悩みを吾れ代わって救わん」と御仁慈のお言葉を遺し、御歳29歳で昇天されました。 
 翌、養和元年(1181年)9月9日王の神霊を奥谷の森の倉(現在地)に移し奉り、ここに「倉天一大明神」として以仁王を祀る倉神社が創建されたのであります。

京都府神社庁




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