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志賀剛博士は、「旧社地は西の坊河内との境で、道に南面して丘の上にあつた。ここは現社地の奥まつた谷より暖かく雀も群居しそうな所で昔は竹ヤブもあり森もあつたという。和名抄には吾雀郷があり地名辭書(吉田東伍署)もここに當てているしこの神社を吾雀明神とも云う所から見ると、雀が語源であろう。アササギ→アススキ。雀をササキと云ひアは発語である。」と述べている。(「古代村落より見たる式内社の研究(2)) 旧社地は現在社より北方、徒歩で40分ほどの所に1mほどの祠があるが、現在は特別の祭祀はされていない。(宮司談) |
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由緒 由緒 (祭神)天御中主神・神皇産霊神・天皇産霊神 当神社は、吾雀宮(あすすぎのみや)又は金宮大明神(かねのみや)といわれ、明治12年式内社に当たる阿須々岐神社の社号を認可された。 志賀の七不思議の一つである節分の日「茗荷(みょうが)」占いをして、稲作の豊凶を神意に問う神事が伝わっている。昔は、丹後方面からも沢山参拝者があった。また、10月17日の大祭には、氏子中より選ばれた射手による金的を撃つ弓の神事や太刀振り、風流踊り、狂言などの郷土芸能が奉納される。本社の背後の高い山は、金ヶ峰と呼び、古代郷土人の信仰した霊山で、阿須々岐神社と共に原始信仰の古い形を伝えている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
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大弓神事 阿須須伎神社大弓神事 大弓神事は阿須須伎神社大祭で奉納祭礼のうち最も主要なものとして、遠く室町時代の後半から行われたと伝えられる。 毎年の大祭(十月十日)の早朝に氏子の中から選ばれた射手十二人が、神事服を着用して神事舎に着座し、素裸装束の師範とともに射礼を行いその矢通し終れば射手三人づつ交互に四度立射し、十五間へだてた■にかかる尺二的に百射を行う。 続いて四寸の金的に奉射し、的中した第一矢をもって射上げとなり、両的を神前に奉献し、射手全員正殿に正対して礼拝を行う中で師範は大弓神事完了の賀詞を奏上する。 奉射は往時の典礼により、端正優雅な動作をもって終始し、専ら自責内省心・技・体一致の全人格を傾注し、唯々神明の照覧に応えることを心に念じて奉射される。 社頭の清浄の気ただよう中に勧められる厳粛な、古来変らぬ伝統のあるこの神事を、参拝者は襟を正して見守り、神威高揚あまねく輝やき渡る思がする。 大弓神事が終れば、始めて大祭儀執行する慣例は、古来から今に伝承されるもので、大弓神事の終るのを待ち構えていた氏子は、供揃いして四百米の練込みをし、神殿の儀、続いて振り物・能・能狂言・花の踊り等の芸能が少年や青年たちによって奉納される。 このように多彩な祭礼、殊に大弓神事が奉納される神社は他にその例がほとんどなく、極めて貴重な伝統のある祭礼として今後一層の振興につとめたい。 社頭掲示板 |
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志賀の七不思議と「茗荷さん」の縁起 その縁起 今から、およそ、1400年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮””若宮””諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰されたということです。 親王の子孫、金里宰相はこの五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して藤波大明神には「藤」金宮大明神には「茗荷」若宮大 明神には「萩」諏訪大明神には「柿」白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ、「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷さん」 毎年、旧暦の正月3日になると、日の出より八時までの間に、清水の流れる「お宝田」から、茗荷が三本出るのです。これを神前 に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、また、その年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占います。 この神事は、今も新暦の2月3日に「茗荷祭 祈願祭」として行われ、地元の人から”ミョウガさん”と親しまれています。 参拝者には、この占いの写し(お宝付の写し)と、魔除けの矢、甘酒、お餅などがふるまわれます。是非一度 お詣りください。 志賀郷公民館 社頭掲示板 |