独立した円錘形の荒木山(416m)が、端正秀麗な姿で神社背後に聳えている。古代人は誰しも神々が集ひたまう所と想像したことと思われる。 現在では僻遠の地であるが、古代から中世にかけて、「荒木千軒」という名が伝えられるほど栄えた。 |
由緒 荒木神社御由緒 延喜内社 田村社 丹波誌天正年中兵火に懸り焼失す云々其の後久しく廃される寛文年中福知山藩士中目権兵衛盛治と云ふ人古記を考へ再興すると云ふ。天津神座故に神並山と云ふ。後朱雀院長元9年大嘗会神遨の歌丹波国神並山詠 ・常磐なる神なひ山の榊葉をさして祈る万代の為 安徳天皇寿永元年大嘗会神楽の歌 ・みしま木綿かたに取掛神なひの山賢木をかさにそする(権中納言兼光) ニ首とも千載集に見へたり勧請年紀不詳 貞観元年5月4日荒木神社宮社に列すると三代実録にあり 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
荒木神社 俗に「荒木の権現さんと敬愛される当社は、延喜式内社として名高く。また背景の山を神南備山とも呼ばれて(神並山、神南山)親しまれたが、中古この山に真言宗の寺院を建立、当時30か寺と伝えられ、天神7代、地神5代を一二所権現として栄えた。 その後、室町末期には仁木義尹が荒木一学と策して籠城し、細川・内藤・波多野等と戦い、また永禄元年(1558)荒木勢と丹波の赤井悪右衛門との戦いで度々兵火に罹り、神殿や寺坊を全廃した。 その後、徳川時代寛文九年(1669)福知山藩の寺社奉行、中目権兵衛盛治が朽木昌俊に従い土浦から赴任した際に古記を調べて荒木神社を再興した。また拝殿は昭和7年に再建された。 例祭は4月16日である。 常磐なる神なび山の榊葉を さしてぞ祈るよろずよの為 と藤原義忠は千載集(1036)に詠んでいるが、後朱雀天皇即位大嘗会の際神遊歌として有名である。 昭和60年春 社頭掲示板 |