由良川の支流和久川の中流右岸に位する。 神社の位置は古来変更していないものと考えられる。 |
由緒 天照玉命神社御由緒 祭神は天火明命で社格は元郷社延喜式内の古社で、天田四座の一つにして創建は人皇第十三代成務天皇の御代丹波国造大倉伎命が宗家の祖先を祀られたものである。その後、戦国時代の混乱と荒廃により一時期衰退していたが、承応2年、時の藩主松平忠房公は崇敬の念、特に篤く、同年11月荘厳な本殿及び拝殿を建立された。 現在の建物は、大正9年氏子の寄進により三ケ年の歳月を費やして、再建されたものである。尚、本殿西に現存の校倉造の宝庫は近在唯一のもので、享保14年(1716)の造営によるもので非常に高い文化資料として称えられている。 当神社は、五穀豊饒の神として名高く、豊富庄を中心にした十三地区民の崇敬をあつめ、雨乞いの練り込みは今もって我々の記憶に新である。 丹波忠重朝臣の和歌 大江山 昔のあとの 絶えせぬは 天照神も あわれとや見む 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
天照玉命神社 郷社 式内 天照玉命神社 下豊富村字今安小字天照 鎮座 祭神 天照国照彦火明命、又御名 天照国照彦火明櫛玉饒速日命 成務天皇の御宇建稲種命四世の孫大倉伎命丹波国造に任せられ(国造本紀)在任中其祖神にます正哉吾勝々速日天忍穂耳命の御子 天照国照彦火明命を奉紀されしを当社と為す(昭和2年栗田博士著神祇志料附考巻十三参照) 丹波志によれば明和2年当社々人 足立宗之の説として「此お宮の御祓は剱形に包に天照玉命と記し古来出札せるを以て再考するに天照玉命は饒速日命ならん」と記せり。 天火明命 高天原にます間、天道日女命を妃とし天香具山命(又の御名 高倉下命)以天孫の祖にまします。 河内国に天降りまして饒速日命と申し長髄彦の妹 御炊屋媛を妃とし宇麻志麻治命を生みます 依て以下天神系の祖神にますこと旧事記に明かなり、天火明命、饒速日命は異名にして同神にまします 然るに徳川初期には当社祭神を皇祖天照大御神と誤信せしことあり。 建稲種命は尾張連の祖にして天火明命十二世の孫にます、古書に当社の記事あるは延喜式神名帳を始め、台記、夫木抄、大八洲記、大日本神祇志、国華万葉記、和漢三才図絵、丹波志等とす。 創建 志賀高穴穂宮即ち成務天皇の御代なること国造本紀に徴して明かなり、境内樹木の齢に依るも其創建の上古にあることを知るべきなり、成務天皇五年九月の創草と云、上古神田、神戸制備はり、境内に接続して競馬場、矢場等の在りしこと今猶ほ附近に小字として遺れり。 久安3年10月13日癸卯、先日典薬頭重基朝臣申日来17日、爲拝氏神、下向丹波国、請賜馬及指貫、今日送此二物。卜又夫木抄(三十町神祇)丹波国天照る乃社にて、丹波忠茂朝臣 おほ江山昔の跡の絶えせぬは天照る神もあはれとや見ん 丹波氏は天火明命の後にして世々当社に奉仕し天田郡の大領たりしこと続日本紀に見えたり、戦国の時代に至り社殿、宝物、古記録等悉く兵災に罹り烏有に皈せり。祭神を誤認されたるは当時の世状を知るに足らんか。 明治の中頃までは例祭8月朔日八朔祭といふ、6月19日宝物虫干を兼ねて夏祭なりしを大正初年頃より氏子農業の関係上八朔祭は10月10日に夏祭は廃止せり、大祭には供進使の参向あり古来宵宮には踊り、当日は角力ありて福知山の御霊祭に次ぐ殷賑を極めたりしか、現今は当日正午、小供、青年に止まる故又昔日の観なし、此外除蝗祭、風鎮祭を行ふ。 当社古和久の天照とて雨の宮とも称へられし御社なれば旱魃に方りては近郷隣郡より祈雨の爲め参詣するもの頗る多し、尚天照の大雨乞とて氏子十三部落より各太鼓打、手踊等の練込あり而して必ず其神助を被らざるはなしと云、是れ古来著名の地方の芸術といはんか。 此外当社祭神は鎮魂の十種の天璽を天神より授からせ給ひし古事に由り、疾病又武事に関する御神徳弥々高くまします。又丹後風土記に依れは天道日女命は農事を奨励したまひ田庭(丹波)なる国名もこゝに基くといへば又稲作の祖神と仰ぎ奉るべきなり。 天田郡志資料 |
天照玉命神社 祭神 丹波国造の祖天火明命、別名 天照国照彦火明櫛玉饒速日命 祭礼 10月10日 社殿境内 徳川時代神祇崇敬の念深かった福知山藩主により社殿造営社領寄進絶えず祈雨五穀豊穣病気平癒等の祈願所となり特に承応3年(1653)藩主松平忠房公は荘厳な本殿拝殿を修造した。 現在の社殿は大正3年(1920)三か年の歳月を費やして再建されたもの本殿西の校倉造の宝庫は享保14年(1729)に建立された近在では唯一のもので高度な文化財的価値を持つ。 本殿西側には他に八神社東側には九神社の小宮を祭る。社格制度制定により明治5年(1872)郡内首位として郷社に列れられ爾来近郷の総氏神として崇敬されている。 社頭石碑 |