当社創建の地は、現在地の北方約3Kmの字筈巻であるとか、或は2Km東方の字猪崎小字泉谷(さぶたに)の奥であるとか、或は字中の聖大明神古跡(『丹波志』〉であるとか諸説がある。 |
由緒 庵我神社御由緒 当社は、古く奈良朝の頃の創建にして社殿中央に天穂日命(天孫卸降臨の前高天原から出雲に使に立たれた神様で土師部の祖)を左に生島神(八十島の守護神)右に気長足姫命(聖大明神と称し仲哀天皇の后)を左右配神として祭祀する由緒ある式内社なり、昔この地方に勢力を誇っていた土器等の製造を業とする部民である土師連が祖先を守護神として祀ったもので福知山藩累代城主の崇敬篤く宝物、神饌物等の奉献あり、天正8年福知山内記十六軒町にありし八幡神社を当社に遷し祀ってよりは専ら八幡宮又は、八幡神社と称せられ霊威極めてあらたかな鎮守の神として尊崇され、現在庵我地区(猪崎、城山、下猪崎、中、池部)の氏神としてのみならずこの地方の守護神として崇敬されている。 社宝の正二位聖大明神の扁額は重要文化財の指定を受けており、他に多くの社宝あり 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
奄我神社 続紀の文によると、奄我神社へ盗人が入り、御供物を食べて中毒したためかそこで死んだ。 その汚れを除くために、社地を十許丈へだてて建替へたといふのであるが、それについて、字筈卷に古くから「聖御前山」と呼び山王を祀る山があり、毎年中村の庵我神社の祭禮の前には、社人が神女(みこ)とともに、同村の西の川即ち由良川で楔(みそぎ)をし、その時聖御前山の山王權現に祀詞をあげることになつてゐる。よつてここが庵我神社の旧地でそこから五十丈をへだてた中村の現地まで遷宮させたものと云傳へてゐる 式内社調査報告 |
庵我神社 木造扁額 (府指定文化財) 庵我神社 福知山市字中小字戸2113 一面 縦82.2cm 横49.0cm 元亨三年(1323) 額 文 「正二位聖大明神」 裏面墨書 「元亨三年癸亥十一月二日庚寅書之」 「散位正四位下藤原朝臣行房」 檜材一枚板製。現状では右側三分の一のところで割れたものをつないでいる。 表はほとんど素地が現れているが、胡粉下地彩色の痕跡をとどめる。長方形の一重枠で囲まれた内区の中央に「正二位聖大明神」の文字を薬研彫し、後世の補修の墨が注がれている。 外線は蓮華様の花先形模様とし四方の角は蕨手状の渦巻きとするが、右上角部を残し欠失する。裏は黒漆塗りとし、「元亨三年癸亥十一月月二日庚寅書之」「散位正四位下藤原朝臣行房」と墨書する。 庵我神社は旧丹波国天田群庵我郷に所在する式内社で、古くは「続日本記」宝亀4年(773年)9月条に「庵我社」として現れる。中世には庵我郷から庵我荘が成立し鎌倉時代には宝荘厳院を本家とし、青蓮院を領家と仰いでいたが実質的には青蓮院の支配を受け、庵我神社は荘園鎮守の性格を有していた。「聖明神」とは四祭神のうちに神功皇后をまつっているためという。 筆者の藤原行房は行成の系統(世尊寺流)の能書の嫡流で、後醍醐天皇に近く仕え、笠置、隠岐と行を共にする。延元2年(1337年)金崎城落城のとき尊良親王に殉じている。 本扁額の書体は行房の祖父教朝の文永十11年(1274年)の銘のある三重県・伊奈富神社の木造扁額(重文)と近似しており、扁額における世尊寺流の書体が確立していたことを知ることができる。 本扁額は保存状態の良好な鎌倉時代の扁額の古例であるばかりでなく、能書行房の希少な真筆としても世尊寺流の扁額の書体の典型型としても貴重である。 (写真は福知山市教育委員会発行『文化財が語る福知山の歴史』より) 社頭掲示板 |
奄我神社 この社の創建は不明ですが宝亀4年(773)に社殿に泥棒が入ったという記録があるので相当以前にさかのぼるものと思われます。 府の指定文化財である木造扁額は、後醍醐天皇の親任があつく歌仁でもあった朝廷の要人藤原行房が表に「正二位聖大明神」と書いたもので、それを三角彫りにした鎌倉時代の格式の高い文化財であります。 この種の文化財は極めて稀でこの社と中央とを結びつける重要な文化財であります。 福知山市教育委員会 社頭掲示板 |
庵我神社木造扁額 庵我神社木造扁額 京都府指定工芸品(福知山市字中) 庵我神社は、旧丹波国天田郡庵我郷に所在する延喜式内社で、古くは「続日本紀』宝亀4年(773年)9月条に庵我社として現れます。中世には庵我郷から庵我荘が成立し、京都三条の青蓮院の支配を受けた鎌倉時代には、荘園鎮守の性格を有していました。 木造扁額は、檜材の一枚からなリ、現状では右側3分の1のところで割れたものをつないでいます。裏面は長年の風雨によって檜の素地になっていますが、胡粉を塗った白の下地に彩色を施した痕跡が認められます。長方形の一重枠で囲まれた内区の中央には「正二位聖大明神」と彫られています。 「聖明神」とは四祭神のうちに神功皇后を祀っているためといいます。裏面は黒塗りとして「元享3年(1323年)」の銘と筆者の「藤原朝臣行房」の名が墨書されています。 筆者の藤原行房は、和様書道の一派である世尊寺流の嫡流であり当時一流の能書家として知られ、後醍醐天皇の側近として蔵人頭・左近衛中将を歴任し、天皇が隠岐に流された際も行動を共にした人物です。 この扁額は保存状態の良好な鎌倉時代の扁額の古例であるばかりでなく、能書家行房の数少ない真筆として、また、世尊寺流の書体の典型としてとても貴重なものです。 福知山市HP |