生野神社
いくのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】生野神社 丹波国 天田郡鎮座

   【現社名】生野神社
   【住所】京都府福知山市三俣541
       北緯35度15分13秒、東経135度12分36秒
   【祭神】天鈿女命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       慶長年間(1600)関ケ原の戦の頃、社殿の改築
       元禄年間(1700)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位
       明治6年(1873)生野神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】古は山上に社有
        中古麓に移し祭る

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「御幣(みてぐら)神社」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿

   【境内社】

当社裏山の、古社地に、雄岩(をいは)・雌岩(めいは)と称する男女の象徴をあらわすような二つの岩があるという。


由緒

生野神社御由緒
境内方百間許、古木爵蒼たり、生野庄(三俣、池田、堀越、上野、生野、坂室、正後寺、萩原の八ケ村)の氏神なり、社地より世間許前に高き所あり、(今の小学校の在る邊)古、鳥居の址にて石など残れり、又同所より西へ六十間許の所に畠の中に方二間の塚あり、古の旅所なりとぞ。本社は往古山上にありしを今の所に奉移せり、元禄年中より正一位御幣大明神との扁額を掲げたり。上古は六人部七ケ村の産土神なりしと云。本社の山上に在りし頃往来の武士に崇りありき。今も旅立する者、此御社に詣づれば、無事に皈着し得ると云。依て遠近の賽者頗る多し。毎年春季大祭に御神楽の奉納あり。(近年、境内を拡張して社務所も新築され大いに面目を一新せり)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



生野神社

延喜式 式内社
生野神社記(御幣神社)
式内社とは延長5年(927)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に四座ある。
祭神は天鈿女命で平和な舞踊や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山、舞鶴、宮津、峰山、豊岡、和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る際は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行、出張、転勤、外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
社殿は慶長年間(1600)関ケ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(1700)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治6年(1873)生野神社と改称、昭和4年(1929)拝殿新築、昭和8年(1933)社務所を建てた。
御幣神社 鎌倉時代(1100)から江戸末期(1800)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたことによる。
氏子は三俣、池掘、堀越、正後寺、坂室の約250戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に6m四方位の岩塚があり、その附辺が、中六人部学区の一宮神社の御神輿と、上六人部字区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所てあったともいう。
御加護 いづれにしても、地域社会の発展と商売繁盛、家内安全、学業成就、歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある。謹白
昭和58年(1983)10月10日
奉献氏子総代一同

社頭掲示板



生野神社

創建、 平安時代中期 (927年頃) 延喜式内社。 国道9号線三俣の上六人部小学校の裏手に鎮座する。 小式部の内侍の 「大江山生野の道の遠ければ…」 の歌で広く世に知られた所である。
 明治6年に生野神社と改称されたのを記念して彫刻が施されたものと推測される。 昭和4年の改築の折に古い彫刻をそのまま移動させたと考えていい。 拝殿の唐破風のすぐ下には、 迫力ある竜があり、 さらにその下には、 唐獅子が2頭。 木鼻にはそれぞれ、 唐獅子と獏が辺りを警戒しているようである。 また2頭の虎がこれもまた周囲を威嚇している。 別の個所には長寿を表す亀の彫り物も目に入る。
 珍しいのは、 脇障子が正面に向かって直角に付けられてはいなくて、 やや斜めに向いていることだ。 この脇障子に鯉に乗っかった仙人の彫り物がある。 彫り物師は、 当国栢原町住人、 中井清次良正用、 正貞の弟である。

丹波新聞2015年02月05日



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