田地の中の島。叢林良く目立つ。 神野神社はもとは円通寺の境内の地にあったが、円通寺の創建に際し北田井の「賀茂神社」(当社)、北御油の「賀茂野神社」(現神野神社)に分祀された。 往古には円通寺の山中にあり、御神体は座禅岩のところに 祀ってあったと云われる。 |
鴨神社 丹後國神野は古來賀美乃御厨に存在せざるべからず、然るに現今の神野神社の所在地は、古來賀茂別雷神社の莊園の一なる丹波の新庄一名御油新庄の内にあり、斯くの如く某神社の莊園内に他の神社ー而も同郡内に其の莊園を有しながらーに縁因ある神社の奉祀せらるゝことは殆ど稀なりと云はざるべからず。然らば賀美乃御厨とは何地を指すやと云ふに山東部鴨庄ならざるべからず、即ち賀美乃御厨が賀茂の御厨となり、鴨庄と転化せるものならざるべからざるなり、今鴨庄に於て此れに相當すべき神社、郎ち賀茂御祖神に因縁ある神社を銓索するに、維新前まで鴨庄村に屬し、今吉見村に屬する梶原に鴨神社あり現今別雷神を祀る、然し此の神社を踏査するに森林鬱然として近世の者にあらざると同時に、地名に於ても首肯すべきものあり、即ち此の森の傍に古墳あり世俗イカゴ塚と称し來れり、而して此の境内古墳より土器其の他の副葬物を多く発掘したる事あり、斯かる事より考ふれば是れ即ち伊賀古夜比売の古墳の所在地にして後に其処に伊賀古夜比売の初魂を齋き祀りて神野神社と称せしにはあらざるかと思はるゝなり。而して現今の神野神社は明かに別雷命の御分神にして、從前は現今の圓通寺の所在地にありしを圓通寺の創立に際し、賀茂社禰宜より此の地を寄進し、現今の場所印ち御油新庄に転ぜし者なり(中略)されば現今神野神社と称するは、賀茂神社にして別雷命を主神とし、後に嵯峨天皇を合祀せし者にして、現今の梶原鴨神社が印ち神野神社にして伊賀古夜比売を祀りたりし者ならざるべからざるなり。 氷上郡志 |
鴨神社 端正な小富士を南に見て、天然記念物の巨木が育つ立派な神社林に鎮座する古社。室町時代に神野神社(かものじんじゃ)と言われた社殿が建立されたが、延宝8年(1680)再建、加茂別雷命になった。誠に多くの神が鎮座する社で、鴨社、八幡、春日、貴船社があり、大神宮、金毘羅宮、庚申堂、厳島神社、珍しくも柿本神社もある。 由緒が分かりにくいが、朝鮮半島南部、九州、日本海沿岸を拠点とする渡来系の豪族鴨氏が、鉄、銅、玉などを交易するため、由良川を遡上し福知山の荒木からこの地に定住し、鴨庄など鴨の地名の多い豊かな地区を形成したものだろう。彼らの矜持が、産土神として、いたく鴨神社を崇拝したのではなかろうか。大正3年鳥居の扁額に柏原の中井権次正胤が筆を入れた。本殿向拝の竜は左上方を睨み、髭は白めっき、目の後方は朱色、朱色の残る宝珠をぎゅっと掴んでいる。正胤60歳時の作である。 丹波新聞2017年02月23日 |