旧地は現在地から800m〜900m東方の谷頭斜面、標高150mの等高線が通過する字瀧が谷、天降に鎮座していた。 1579年(天正7年)高見城落城の時に類焼し、その後、現在地の「湯の森」で再建された。 |
由緒 御由緒 新井神社は、式内社といって平安時代に定められた「延喜式」という法典によって定められた神社で、平安時代の初め(九世紀)にはすでに創建されていたようです。 神社は、最初、現在地より奥の「滝ケ谷」という所に祀られていたのですが、1579年(天正7年)高見城落城の時に類焼し、その後、現在地の「湯の森」で再建されたものが現存している社殿です。新井神社には、もともと天地創造の神である高皇彦神霊が祀られていましてが、江戸時代の初め寛文年間(1661年〜73年)に比叡山延暦寺の守護神「日吉神社」の分霊が移されてきました。日吉神社は俗に「山王権現」ともよばれ、山王の使者が猿であるということから、この付近では犬を飼ってはいけないという伝承も残っていました。(兵庫県指定・重要文化財) 拝殿にある一対の猿の木彫は、柏原の名工中井権治の作です。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
新井神社 新井神社の創建は不詳ですが6世紀に勧請されたのが始まりと伝えられています。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載され古くから格式の高い神社として信仰を集めました。当初は滝ケ谷に鎮座し高皇彦神霊が祀られていましたが、天正7年(1579)、明智光秀の丹波侵攻により高見城が落城しその兵火により社殿が焼失、現在地に遷座再建されます。さらに寛文年間(1661〜73)、比叡山延暦寺の鎮守社である日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請合祀して「日吉山王」などと呼ばれるようになりました。現在の本殿は江戸時代中期に建てられたと推定される建物で入母屋、茅葺、3間唐破風向拝付、桁行3間、梁間3間、当時の神社本殿建築の遺構として兵庫県指定文化財に指定されています。日吉大社では猿が神の使いとして神格化されている事から社殿には中井権治が製作した神猿像(1対)が安置されています。境内にある御神木3本杉は、根元を跨いで子授の祈願を行うと念願成就すると伝えられています。 社頭掲示板 |
新井神社 創立年不詳。平安時代の初め9九世紀には、すでに創建されていたとされる。 「滝ケ谷」という所に祀られていたが、天正7年(1579)、高見城落城の時に類焼し、現在地の「湯の森」で再建されたものが現存の社殿である。 高皇彦神霊が祀られていたが、江戸時代寛文年間(1661〜1673)に比叡山延暦寺の守護神「日吉神社」の分霊が勧請。 日吉神社は俗に「山王権現」ともよばれ、山王の使者が猿であるということから、この付近では犬を飼ってはいけないという伝承も残っていた。 拝殿にある一対の猿の木彫は、柏原の名工中井権治の作。 兵庫県神社庁 |
新井神社 創建は大和時代、欽明朝(539−571)で市内延喜式内社17社の内の最も古い神社の1つ。祭神は天地創造の神、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)であるが、江戸初期、比叡山の麓の日吉大社の分霊が祀られ、俗に「山王権現」とも言われ、その使者が猿であることから、本殿(県指定文化財)には見事な猿の彫り物がしつらえられている。阿吽の呼吸の猿(向かって左が雌、右が雄、それの陽物が際立っている)。猿は(さる)に通じ、災害除けの聖獣である。他に目につく彫り物はない。6代目中井正貞の力作である。 丹波新聞2017年02月09日 |
新井神社 欽明朝(六世紀)の創建といわれ「延喜式」に記載されている市内式内社十七社の一つです。 もともとの祭神は天地創造の神、高皇産霊神とされますが、江戸時代の初めに比叡山延暦寺の守護神である「日吉大社」の分霊が祀られました。日吉大社は俗に「山王権現」とも呼ばれ、山王の使者が猿であるところから、本殿「県指定文化財」には中井権次正貞の作による一対の猿の木彫像があります。 また、「境内の御神木三本杉の根もとをまたいで子授けをお願いするとよく聞き入れられる」という信仰から参拝に来る人も多いです。 社頭掲示板 |
県指定文化財 新井神社本殿 指定年月日 平成3年3月30日 所有者・管理者 新井神社 大新屋字湯の森に鎮座。欣明天皇在位の頃(6世紀)の創建といわれ、昔から、崇敬があつい。 もとの本殿は今の神社より約500m奥の滝ケ谷に祀られていたが、天正7年(1579)明智光秀の高見城攻めの時、兵火にかかって焼失、後に再建されたものが現存する本殿である。本殿は茅葺で、建築様式から推測して、江戸時代中期の建築と思われる。 本殿両側に中井権次正貞作の一対の猿の木彫像がある。 平成3年11月 兵庫県教育委員会 社頭掲示板 |