境内地の西に接して前方後円墳の稻塚と陪塚が築造されている。 社殿の後方にあたる森林中に「影向石」とよばれる周囲25m、高さ3.6mの半球状巨石があり、そこにはかつて大欅樹があつて巨根が巨石をとりまいていた。 大正14年4月には兵庫県史蹟名勝天然記念物の指定をうけたが、今は朽腐して面影はない。 |
由緒 御由緒 当神社は聖武天平18年(746年)に兵庫の守護神として鎮祭され、延長5年(927年)撰進「延喜式神名帳」によると兵主神社は全国に十九社あり、丹波國一社として登載された「式内社」であります。 公家武家丹波但馬播磨等をはじめ各地の人々の崇敬厚く、特に戦国時代からは疱瘡の守護神として主上御疱瘡の時、または皇子誕生の際には内侍局より御代参を立てられました。近衛関白家は代々崇敬厚く、左大臣近衛信尹は外戚の縁により慶長10年5月26日心願の為参拝、神前に「祈るかひあるにつけても藤原にかかる契りや春日部の郷」の歌を献詠、数多の寄進をされております。 その時の行列は、「御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、都合十人、台傘一、挾箱二、鳥篭二、竹馬一荷」であったといわれております。 文化11年、内大臣近衛基前は自筆の鳥居額「兵主社」を寄進されましたが、その時京都より沿道の住民が人夫になって御供をしました。 また嘉永2年、近衛忠熈は其子忠房の疱瘡安全祈願を行い、程なく全快され、その報賽として種々の献上物があり、今に神社宝物として保存されております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
兵主神社 御祭神、大國主大神は、國土開拓・縁結びの大神で、またの御名を大名持大神として少名持大神とともに病気平癒守神医薬の神として健康を守ってくださり、また金刀比羅大神として車の守護・交通安全の守り神であり、恵比須大神と共に商売繁盛・福徳開運の神としてあがめられ、生命財産を守ってくださる兵庫の守護神であります。 当神社は聖武天平18年(西暦746年)に兵庫の守護神として鎮祭され、延長5年(西暦927年)撰進された「延喜式神名帳」によると兵主神社は全国に十九社あり、丹波國一社として登載された「式内社」であります。 公家武家丹波但馬播磨等をはじめ各地の人々の崇敬厚く、特に戦国時代からは疱瘡の守護神として主上御疱瘡の時、または皇子誕生の際には内侍局より御代参を立てられました。近衛関白家は代々崇敬厚く、左大臣近衛信尹は外戚の縁により慶長10年5月26日心願の為参拝、神前に『祈るかひあるにつけても藤原にかかる契りや春日部の郷』の歌を献詠、数多の寄進をされております。その時の行列は、「御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、都合十人、台傘一、挾箱二、鳥篭二、竹馬一荷」であったといわれております。 文化11年、内大臣近衛基前は自筆の鳥居額「兵主社」を寄進されましたが、その時京都より沿道の住民が人夫になって御供をしました。また嘉永2年、近衛忠熈は其子忠房の疱瘡安全祈願を行い、程なく全快され、その報賽として種々の献上物があり、今に神社宝物として保存されております。 由緒書 |
兵主神社 兵主神社は聖武天平18年(746)に兵庫の守護神として鎮祭され、延喜式内社としてご祭神大名持大神(大国主大神)は少名持大神と共に病気平癒の守神医薬の神として健康長寿を守って下さり、また金刀比羅大神として車の守護、交通安全の守神であり、恵比寿大神と共に商売繁盛福徳開運の神であります。 往古より公家、武家、丹波、但馬、播磨、等をはじめ各地の崇敬厚く、特に戦国時代からは疱瘡の守護神として、主上御疱瘡の時または皇子御疱瘡の際には内侍局より御代参があり、また近衛関白家は代々崇敬厚く、種種の献上物は今に神社宝物として保存されております。 社頭掲示板 |
兵主神社 兵主神社は、延長5年(927年)に撰進された「延喜式神名帳」によると全国に19社あり、丹波國一社として記載された「式内社」です。 京都、大阪、丹波、但馬、播磨をはじめ各地の人々の崇敬厚く、江戸から明治時代にかけて「病気平癒の神」として、多くの参拝者が多くありました。 NHK大河ドラマ「篤姫」でおなじみの近衛家が、「産土神」として御参拝になったのも有名です。 公式HP |
兵主神社 聖武天平18年(746)、兵庫の守護神として鎮祭され、延長5年(927)、撰進「延喜式神名帳」によると、兵主神社は全国に19社あり、丹波国一社として登載された「式内社」である。 戦国時代、疱瘡の守護神として主上御疱瘡の時、または皇子誕生の際には内侍局より御代参を立てられた。 近衛関白家は代々崇敬厚く、左大臣近衛信尹は外戚の縁により、慶長10年(1605)、心願の為参拝。神前に「祈るかひあるにつけても藤原にかかる契りや春日部の郷」の歌を献詠、数多の寄進をされております。 その時の行列は、「御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、都合十人、台傘一、挾箱二、鳥篭二、竹馬一荷」であったといわれております。 文化11年(1814)、内大臣近衛基前は自筆の鳥居額「兵主社」を寄進されたが、その時京都より沿道の住民が人夫になって御供をした。 嘉永2年(1849)、近衛忠熈は其子忠房の疱瘡安全祈願を行い、程なく全快され、その報賽として種々の献上物があり、今に神社宝物として保存される。 兵庫県神社庁 |